少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

439  いじめ根絶不可能国

「自殺」は感染するというが、特に子供のいじめによる「自殺」の連鎖はマスコミ報道がきっかけとなり、感染する速度が極めて早い。僕も私もと幼い心は「ためらい」から「決意」に安易に変わってしまうのだ。
そして、今、また「自殺」の連鎖が顔を出してきた。新聞やワイドショーは「二度と同じ悲劇を繰り返さないように」とこぞって報道する。それは仕方ない。しかし、それに関連する報道(自殺した児童の報道ではない)を見るにつけ、この国において「いじめ」の根絶は不可能に近いと落胆した。
理由は簡単だ。子供の喧嘩に親(と教師)が出てきた時点で、その子の成長は妨げられることになる。子供の喧嘩といえども当事者同士で解決するのが筋。で、なければ大人になる貴重な段階をスル―してしまうことになる。つまりロクな大人になれない。大人になってからの「いじめ」は子供のころのそれに対して、その比ではないほど悪質なのだ。子供時代の「いじめ」はそれに対抗する訓練であったということは、後からわかるにせよ、必要なステップ(ハードル)とも言える。
・・・とまあ、これは我々世代の話であるということは、僕でもわかる。現代の「いじめ」は僕らの子供時代よりはるかに「陰湿かつ悪質」であることも把握した上で書く。
「こんな時代に誰がした?」と今さら犯人探しをしても意味はないが、犯人は間違いなく親と教師である。過去は変えられないとしても未来は変えられる。まず、親と教師を何とかしなければ「いじめ」の根絶は不可能だ。では、どうしたら良いのか?答えは「NO437 いじめのメカニズム」ですでに書いた通り。戸塚宏著「敵は脳幹にあり」に網羅されている。
さらに教員採用に決定的な問題がある。今や教員は四角四面の役人タイプばかり。だから問題を隠すことに終始するのだ。四角四面の役人が悪いと言っているのではない。そういう偏った人間ばかり採用することがおかしいというのだ。宇宙の法則からいけば、100人の生徒の中には優等生もいれば不良もいる。これはバランスだ。教師の中にも不良を理解できる元不良教師がいなければ、不良の行き場所がなくなる。ストレスは必ず弱い者へと歪(いびつ)なカタチで発散される。つまりそれが「いじめ」の要因のひとつでもある。
親に至っては救いようがない。モンスターは論外として普通の親にも問題がある。「善」と「悪」の区別を体を張って子供に示しているだろうか?
例えば電車に乗る。優先席に若者がふんぞりかえる。その姿を見て、一緒に乗った自分の子に「あそこに座ってはダメですよ」と注意するのはまだ良しとして、何も言わない親、そこに一緒に座る親に問題がないとは言わせない。以前に書いたが、僕は少数派なのでそういう若者には注意する。注意された側とトラブルこともある。しかし、たとえ小さな正義でも跡を継ぐ者たちに態度で示さなければ「正義」は育たない。親も教師も大人も命がけで「正義」を示さなければ、子供は「真似」をする。
それが度を越した「お笑い」であり度を越した「バーチャルゲーム」である。子供は必ず「真似」をする。局は視聴率、企業は売上さえ上がれば「そんなカンケーねえ」で祝杯をあげる。そんな大人たちの思慮のない商業主義も「いじめ」増長の大きな要因である。
今回の「いじめ自殺」の連鎖で「私どもの学校では、教師と生徒が緻密に連携をとり、なにかSOSのサインが出たら、当事者同士を呼んで、とことん話し合いをさせ、いじめの増長を事前に防ぐように努力しております」な〜んてことをどこかの学校がテレビで自慢していました。
まあ、どうなんでしょうかねえ。否定はしませんが、先に書いたように子供たちから「大人になるための段階」を奪っているような気もします。これは思考としては正しいのですが、方法に問題があるような気がします。お役人教師らしく連携プレーをマニュアル化しているみたいですが、もし、子供たちの心に「教師にやらされた」「教師に助けられた」という概念が残像として残ったなら、それは大人になってからも、問題を自分で解決しようとはせず、常に誰かの助けを待つという弱者になり、さらにその子供たちは、そんな親の背中を見ることになるのです。
子供のうちから「自分で解決する」もしくは「友達も加え、子供同士で解決する」という教育を受けた子と、「親や教師という名の権力に解決してもらった」という子の社会に出てからの格差がどれだけ大きいか、想像に難くないと思います。
日本国は総理大臣という代表者が平気で日常的に「嘘」を並べる国なので、子供も大人も「正義」に対して真剣に取り組む意欲を喪失していることも事実です。日本は今や、何もかも失いつつある「喪失の時代」です。せめて我々だけでも・・・。