少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1005 江戸時代古地図

骨董の師匠、九州拾得改め、埼玉拾得さんから、珍しいお宝を譲っていただいた。江戸時代の古地図である。
昨4/30(月)、義母のお見舞い帰り、埼玉拾得さんが、奥さん運転の車で小手指まで迎えに来てくださった。
ビリケンさん(安藤の屋号)にお見せしたいものがある」と持ってきてくださったのが、銀座優美堂の額縁に入った、江戸時代の古地図。嘉永新年の刻があるから、江戸末期の1848年、孝明天皇の時代。で、原本は安政4年巳年の刻入りで1858年版。「雑司ヶ谷 音羽 絵図」とある。
以前、拾得さんに安藤家の家系図を見ていただいたことがる。拾得さんは、それを記憶していてくださった。
「おお、これは安藤さんの家が出ているぞ。直感だけど、そう思って、知り合いの業者から譲ってもらった」という逸品。(50センチ×50センチ)
護国寺の表参道を挟んで東に安藤長門守、西に松平出羽守の広大なお屋敷が広がっている。
護国寺徳川綱吉の母・桂昌院の創建で、以降は将軍家の祈祷寺院。安藤、松平の両旗本が三河から出て護衛のために、参道の東西を陣取ったとして辻褄が合致する。
家系図によれば、祖先は愛知県岡崎の出身で三河武士。家康公の馬回りをしていた、とある。その後、相模原、武蔵野に出でて1500石となる、とある。拾得さんの推測では長門守の屋敷に居た可能性は極めて高いとか。
事実、父親が生まれ育った生家は、そこから徒歩5分。地図にも出ている。本籍は雑司ヶ谷一丁目。当時の地図ではピンポイントで表記されていて、戦後の区画整理で以前の番地と変更されたが、豊島区役所で調べたところ、古地図の位置と合致した。
十間(約18メートル)ほど先には「三河物語」の著作がある旗本の大久保彦左衛門(1560〜16399)名義の居住地もあり、護国寺の周囲を三河勢で囲み警備していたことがうかがえる。
これはぜひ、ビリケンカフェに飾りたい。
「気に入っていただければありがたい」と拾得さんは快く譲ってくださった。
今から、およそ160年前の地図だが、近辺の道路は現在とほぼ同じ位置にある。そこに、父親の代までの家がカタチとして残っていたことも嬉しい。
5色刷りの職人技はデザイン画としても美しい。
親父が見たら、もっと詳しくいろいろ教えてもらえたのに、残念だ。でも、160年前って、そんな昔じゃないのに、グーグルマップとか見ていると、この地図が古代のもののように思えてくるからなんとも不思議なものだ。いまから100年後、日本は、世界はどうなっているのかな?やっぱ、あと50年くらいは生きてみるとしようか。