少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1770 浄土からの声が聞こえる19

3・11からの半年後の9・11、佳子は打ちひしがれた気持ちのまま、帰途についた。結局、あの日、そう、地震が発生した3月11日、避難中の父・拓馬との電話が、最期の「声」となった。母・美和子の声は、聴いていない・・・。
東北地方には佳子のような境遇の家族が、大勢いる。それは震災から2年を過ぎた現在もなお・・・。希望を持ち、メディアに前向きのメッセージを送る強い人もいるにはいるが、それは全体像とは言えない。ごく一部の少数派の人々で、多くの人々は、まだまだ悲しみの中で日々、「生活」という苦行に怯え、「進まぬ復興」と「行政の不公平」に怒りを堪えている。


本心を言えば、諦めたくはなかった。どんなに時間がかかろうとも、せめて遺体が見つかるまでは、佳子は両親と祖母の捜索をやめたくはなかった。
しかし、東京には家族がある。夫がいて、二人の子供がいて、夫の両親や兄弟、親戚がいて・・・。みな、佳子に気遣い、傷つかないように振る舞ってくれる。そんな思いが強いほどに、佳子の心情は、どこかで区切りを・・・いつかピリオドを・・・という裏腹がいつしか宿っていた。
それが、震災から半年過ぎた9月11日だった・・・。


帰りの汽車の中・・・、わずか半年で復旧された、日本のレールはこの国の誇りだと思いながら、そして、この誇りを証明するために犠牲者となった死者の数と「誇り」の重さが、どうしても釣り合わないと・・・佳子は静かに車窓を眺めた。跡形もなくなった実家で手向けた白い菊の花と、線香の移り香が、佳子の白いワンピースの肩のあたりから漂った。車窓から変わり果てた東北を見て、佳子は幼いころの自分の姿、優しかった祖母、海に潜る海女の母の真剣な表情、大きな魚を獲ってきたときの父の自慢げな笑顔、新しい自転車を買ってと泣いてせがんだ幼い自分・・・さまざまな走馬灯が蘇ってきた。
車内は小さな子供の声と、列車が枕木を越える音しかない。佳子の涙を見た乗客も、その理由を聞く人もいない。みな同じだからだろう。それぞれが、その胸の中で、悲しみを打消し、明日へ生きようともがいていた。
東京に着くまでに、この涙をすべて、この上り列車の中に置き忘れていこう。佳子は、強く、そう心に誓った。

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それから二か月・・・。もう11月も半ばすぎ、コートが重たくなったころ。翌年の年賀の喪中葉書の期日が、印刷屋から催促されていた時期だった。
夕方、そろそろ太陽が西の空から消える、綺麗なオレンジ色の時刻。佳子は自宅マンションのベランダで、洗濯ものを取り込み、故郷の空を思い出していた。
その時、ダイニングテーブルの上に置いてあった、佳子の携帯電話が鳴った。
着信音はトワ・エ・モアの「誰もいない海」。佳子が子供のころ、大好きで母にねだったレコードだった。ふだんは、家計に厳しく、佳子のおねだりなど聞いてくれなかった母だが、このレコードだけは、すぐに買ってくれた。宮古の町に出たときに、小さなレコード店で買ってきてくれた。店の人に頼んでポスターまで貰ってきてくれた。毎晩、母と二人でポータブルのステレオで聴いた、母との思い出の曲だった。


佳子は携帯の送信相手の名前を見て、仰天した。
「うそでしょ・・・」
佳子は電話に出た・・・
「もしもし・・・ ・・・ もしもし・・・・」
「・・・・」
「もしもし、どちらさま・・・・」
「・・・・」
「もしもし、おとうちゃん・・・おとうちゃんなの、もしもし・・・」
「・・・・」
「ねえ、答えてよ、おとうちゃんなの・・・ねえ、答えて・・・」
「すまねえ・・・佳子・・・・おとうちゃんだべ・・・」
「本当に・・・本当に、おとうちゃんなの・・・、ねえ、いまどこにいるの」
「宮城の病院さいる・・・・」


(つづく)