少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1782 鈴鹿で馬を

鈴鹿越え これくださいと 馬を買い」(平成芭蕉
「峠から 伊吹降ろしと 籠細工」(平成芭蕉


「少数派日記」NO 1832 「平成の芭蕉へ」を最終アップした10:20分から13分後の10:33分に「ちょうど、あたしたちも、昨日の夕方、キャンピングカーを買ったところです・・・」というメールをいただきました。シカゴ時代の本屋のお姉さんからです。
すっごいタイムリーですね。しかし「あたしたちも」という表現は間違いで「あたしたちは」・・・ですね。安藤総理は、まだ構想段階です。
で、凄いのが、「たまたま走っていた鈴鹿のバイパスで安いの見つけて、すぐ買っちゃいました。きのうの夕方のことです・・・」って姉さん、それってもしかして「衝動買い」ってやですか?
安藤総理は3万円の自転車を買うのに、一週間悩んで、10日間迷って、結局諦めましたけど、「これください」「はい、どうぞ」ってカッコ良すぎません?・・・ってことは、中国式に、その場でキャッシュで支払って、乗って帰ってきた・・・ってこと? オイラときたら3万円の自転車買うのに月賦払いを考えていたのに・・・。
安藤総理が、安城へ行く際には、そのキャンピングカーでお迎えに来てくれるそうなので、それは超楽しみです。
というわけで、平成芭蕉の句を安藤総理が解説します。


鈴鹿越え これくださいと 馬を買い」
解釈=平安初期850年ころ、京の都から 美しい姫(杜若姫=とじゃくひめ)が稀代の色男・在原業平を追い求め、三河の国・八ッ橋へ向かう途中、箱根峠とともに日本二大難所の鈴鹿峠を越えたという。宮中の反対を押し切り、着のままで都を出(い)でたため、召し物も乏しく、途中からは裸足同然のお姿だったという。側近もわずか数人の女官が従えたにすぎず、盗賊に出くわしたりと悲惨な目に遭遇する。そんな折、女盗賊・立烏帽子(たてえぼし)の前身となる女性自警団に救われた杜若姫は峠の茶屋で「これください」と言って「早馬」(キャンピングカー)を買い、無事、三河の国に辿り着いたという。(鬘物=かずらもの=金春禅竹作 能の曲種 業平の東下りの物語り より創作)


立烏帽子、は、室町時代の紀行文『耕雲紀行』や御伽草子『田村の草子』などの物語に登場する伝説上の女性。鈴鹿御前(すずかごぜん)鈴鹿権現、鈴鹿姫ともいう。伝承によって、女盗賊、天女、鬼女であったりとその正体や描写は様々であるが、室町時代以降の伝承はそのほとんどが坂上田村麻呂の鬼退治譚と関連している。
平安時代から盗賊が横行し、鬼の棲家として伝えられる三重・滋賀県境の鈴鹿山に棲んでいたとされる。盗賊として描かれる際には立烏帽子と呼ばれることが多い。


「峠から 伊吹降ろしと 籠細工」(平安芭蕉
峠とは、アクオスの故郷でおなじみの亀山工場にほど近い鈴鹿峠のこと。天正10年(1582年)6月1日、謀反した明智光秀が本能寺を目指す拠点となったのも亀山城だが、こちらは兵庫と京都の国境、京都市右京区にある小倉山のことなので混同しませぬよう、念のため)。
で、この伊吹降ろしが、春先でもけっこう、さぶい(三河弁=寒い)。尾張三河地方まで凍えさせる。そっして、その伊吹きおろしに乗って、姉さんの籠細工=キッチン・バス・トイレ・ベッド・カーナビ・テレビ・冷蔵庫・応接間が内装された籠、がやってくる。


ーーーーーー鈴鹿峠 豆知識ーーーーーー
 

鈴鹿山脈のなかで最も低い位置にある峠で、古くから畿内から東国への重要なルートであった。壬申の乱に際しては、大海人皇子(後の天武天皇)に味方した伊勢国司の兵が鈴鹿山道(鈴鹿峠)を封鎖している。飛鳥時代に現在の亀山市関地区に鈴鹿関が置かれ、以後これより東を関東と呼んだが、当初は伊賀国を経由する加太越えの道が用いられていた。仁和2年(886年)、斎宮繁子内親王の伊勢行きを契機として鈴鹿峠を経由する新道(阿須波道)がひらかれ、その後明治にいたるまで東海道の本道として機能した。また、「鈴鹿山」と呼ばれる鈴鹿峠とその周辺の山地は、『後撰和歌集』以降歌枕として多くの和歌に詠まれた。

盗賊の横行する場所としても名高く、新道開通12年後の昌泰元年(898年)には伊勢神宮への勅使一行が襲撃され、以後鈴鹿山の盗賊はたびたび史書に現れることとなる。こうしたなかで、坂上田村麻呂による鬼退治や、女盗賊立烏帽子(鈴鹿御前)の伝承が生まれた。峠をへだてて滋賀県側には土山の田村神社が、三重県側には坂下の片山神社があり、それぞれ田村麻呂や鈴鹿御前を祀り、室町時代・江戸時代を通じて東海道の旅人たちの守護神として崇敬された。

江戸時代には東海道五十三次として坂下宿・土山宿が整備されたが、明治23年(1890年)に草津-柘植-四日市間に鉄道が開通したことにより、東海道の要衝としての地位を失った。現在の鈴鹿峠は自動車社会の急速な進行に対応すべく国道整備が進み、 旧街道は東海自然歩道の一部として残っている。