少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1841 青春18切符W編4

「稲穂」を出てW大の正門と反対方向に2分も歩くと早稲田通りに出る。それを左手に行くと、もしかしたら僕が行くはずだった親父の母校の「早稲田中学」と「早稲田高校」があり、その隣りにはあの王さんの「早稲田実業」があった。もし、W大に入学すること自体がゴールだとしたら、ここに来れば何とかなったかも知れない。しかしそれは田舎で得た膨大な青春のカケラたちとの引き換えになる。人生は二つ選べない。選んだ方が正解でもあり不正解でもある。だったら選んだ方、あるいは選ばれた方を無理にでも結果オーライだと、自信を持つ生き方の方がいいに決まっている。


僕の田舎の中学は、5つの小学校から成る1学年11クラスのマンモス中学で生徒数は1200人を越えた。僕がいた野球部だけでも部員100人を越える、名門高校野球部並みだった。実力もすさまじく、僕が在籍した3年間でただの一度も負けた記憶がない。県大会でも必ず優勝した。
1学年で11クラスもあると、3年間同じ学校に居ても、半分以上は口もきかないまま終わってしまう。それでも半分の200人とは友人になれる。部活の先輩後輩を含めると上下2年ずつの間の生徒や兄弟姉妹たちとも知り合いになれる。それが小中高と通算12年にも及ぶのだから、その数量や生半可ではない。地元に戻り、輝川の運転で町を流すと必ず知った顔に出会う。ここはあいつの家、あそこはそいつの家と、いつまでも変わらない友人たちの所在地を数え上げたら100や200では到底きかない数だろう。
小学6年の時の担任教師が「東京の中学にひとりで行かせるのは、必ず不良になるから」という僕の東京行きを猛反対した理由には納得しかねるが、両親の下した決断は「結果オーライ」だったのだと、僕はそう思うようにしていた。


そして早稲田通りを右折すると、高田馬場まで続く片側2車線道路となる。緩やかな登り坂が左にカーブしていて、その先には学生街らしく、古本屋、定食屋、居酒屋、喫茶店、銭湯、スポーツ店、文房具屋がひしめいていた。山元さんは西早稲田の交差点を渡り、右に曲がると緩やかな坂道を高田馬場方面へずらずらと歩き出した。僕はとぼとぼと後ろについた。
3分も歩いただろうか、坂の中腹あたりで山元さんが「ちょっとここで待ってな」と言い、僕は路上で待たされた。山元さんは古ぼけた新聞店に入っていった。5分も経っただろうか、いや、そんなにかからなかったと思う。中から山元さんが出て来た。
「よし、ここに決めてきた。きょうから泊めてくれるってさ、おいでよ」と山元さんは僕を手招きした。???僕には何のことなのか、事態がさっぱりつかめていなかった。
「こちらが、先ほどお話しました海藤くん。真面目な子なのでひとつよろしくお願いいたします」
山元さんの敬語をはじめて聞いたが、まさか、そういうわけじゃないだろう・・・。
が、そういうわけだった。
とりあえず、二階の部屋に通され、荷物をそこに置いた。
「んん、いい部屋じゃないか、良かったな、とりあえず祝杯のビールでも飲みに行こうか」
12時に大隈講堂の前で山元さんと待ち合わせてから1時間弱、「稲穂」を出てから10分と少々、タモリの「笑っていいとも」が始まってから終わるまでの間に僕の昼食と下宿と仕事先は片付けられた。
山元さんの「テキトー」主義はもしかしたら「世の中なるようにしかならん」という紀元前の中国の思想家、楚の老子の教えを汲むものだろうか。「人の権力への欲望は際限なく、人が力ずくで天下を治めんとすれば、戦に終わりはない。財徳を成し得た国王が、自己の親兄弟を愛するが如く、民を愛し、他人を愛する心を持たねば戦は終わらない」という反官思想の儒教を説く孔子に対し、「無為自然」の老子の教えは「無用にじたばたせず、世の中の流れに自然に身を任す。世の中はなるようになる」というもの、これ即ち山元さんの「テキトー」主義の源流のような気がしてならなかった。


(つづく)