少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1867 橋下徹の正論6

「売春」が是か非かと問われれば、声を大にして「是」と言います。
必要か不要かと問われれば、声を張り上げて「必要」と答えます。
善か悪かと問われれば、「どちらでもない」と普通に答えます。


安藤総理大臣の「少数派日記」は、テレビに出てる偽善評論家やカマトトコメンテーターとは違い、自分自身の人生の無駄遣いはしたくないので「本音」で書きます。


合法か非合法かは別として、この地球上に「売春」そのものが、存在しない国があるのでしょうか? あったら教えていただきたい。
男と女が存在して、そこに「性欲」という欲望があるならば、「愛情」という曖昧な可動的観念が存在しなくとも、物質的な利害さえ一致すれば「性交」という名の行為が成立し、そこに金品や物品の授受が発生すれば、すなわち「売春」「買春」と言われるだけのことであって、皮肉った言い回しをすれば、「結婚」という儀礼的行為そのものが、究極の「売春」であり「買春」であるという論理も、一方で成り立つわけです。


まずは、「是非論」から片づけましょう。
ここまで書きましたように「売春」はビジネスです。これの是非を決めるのは法律や道徳であってはなりません。個人の価値観念です。
橋本徹市長が声を大にして言うのは「第二次世界大戦における、慰安婦問題で、そこに拉致強制暴行が、事実としてあったなら、これは重大な人権の蹂躙であり、あってはならないこと」であります。
橋下市長の文言は、従軍慰安婦の主張を完全に支援しているものであり、どこをどうとらえたら、それが彼女たちを傷つけ侮辱しているのか、マスコミの論調はまったく理解に苦しみ、それを真逆にとらえている愚民の脳味噌のレベルを疑います。


「売春」がビジネスである以上、売り手と買い手がいて、双方が、その対価に同意してはじめて商談が成り立つわけです。これが、従軍慰安婦や、江戸時代の人身売買による強制的なものであれば、ビジネスではなく犯罪です。
そこは「区別」して議論しましょう。


では「対価」とは何か? 太古の時代は食糧であり、現在は「通貨」ですよね。その通貨で食糧を買い、家族を養う人もいれば、ルイビト〜ンのバックを買ったり、海外旅行に行ったり、あるいはホストに貢いだり、あるいは大学の授業料にしたり、あるいは入院している母親の医療費にあてたりと、持ち主の自由価値によるものです。


これを、真っ向から「非」であると論理的に説明できる論客がいたら、是非ともご意見を伺いたい。性欲には個人差があり「性欲」が盛んな女性だって世の中にはたくさんいらっしゃる。「趣味と実益を兼ねた職業」だと捉えている女性だってたくさんいる。利害が一致している故、被害者が存在しない。ならばこれを「非」と呼ぶのは強引すぎやしないか。


日本の憲法には「職業選択の自由」がうたわれている。「売春」が「職業」ではないというならば、正々堂々と「売春」が行われている「ソープランド」の従業員の立場は憲法で保証されていないということか?
彼女らは性的サービス業の一従業員として、経営者から明細書付きの給料を貰い、一般サラリーマンと同等の保険料や住民税などの税金を支払い、厚生年金の受給対象者でもある。組合組織にも加入し、定期的な健康診断も義務付けられている。店も合法組織として売上から既定額をきちんと納税し、脱税が認められた組織は国税に摘発され、貴重な国益の財源となり、その税金によって、公務員の給与が支払われ、公共事業を介して、現場付近の飲食店が潤い、病人怪我人が安心して一定の医療行為を施され、児童学童が飢え死にすることなく、学校給食の補助が支給され、官官接待費用に使用され、そのうちの一部がまた巡り巡って、ソープランドの入浴費用となり、永遠の輪廻の構図となるわけである。


聖職者を気取る学校教員の給与の一部は、彼ら彼女らが「汚らわしい」とのたうちまわる「売春」によって、買春男が垂れ流す欲望の対価としての金銭を、自身の意志で売春を肯定した女の肉を通し、男の欲望は下水道へと、女の欲望の一部はルイ・ビト〜ンへ、一部は運営組織へ、そして一部は納税を通して、道徳的聖職教員の給与となり、その一部がその教員の家族の晩ごはんのおかずの豆腐や餃子の皮になったり、御子息ご令嬢の学習塾の授業料になるわけで、「そんな金は受け取れません」と言えるもんなら言ってみな、となるわけです。
よって売春の「是非」論に関しては「肯定」です。
反論、無制限で受け付けます。


(つづく)