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少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2139 本当に信用できるのか新都知事

黒い祭典東京五輪 不条理社会論 原発問題・東電

今回の都知事選、明らかなる「消去法」であった。
安藤総理も殿様を完全肯定したわけではなく「反原発」と「東京五輪の血税垂れ流し防止政策」に一票を投じたに過ぎない。


候補者の人格とか人間性やオンナ癖に関して言えば、安藤総理も大きな顔はできない。叩けばホコリが出てくる身である。だから、他者への言及は墓穴を掘ることにもなる。とにかく安藤総理は素行が悪い。好色でもあるという声もある。
ただ、「プロである以上、まず仕事をこなせば、ギリセーフ」が持論である。
多少、オンナ癖が悪くても、きちっと仕事さえこなせば・・・というのが、是非はともかく大人の世界である。清く正しく、オンナ癖もないが仕事もできない人材よりは、うんと社会貢献しているではないか。
だから、舛添くんが都知事としての仕事をこなせば、オンナ癖なんてカンケーねえ・・・というのが総理の基本的なスタンスです。


ただ、あの人畜無害っぽい風貌に騙され・・・いやいや勘違いされて投票された方も多いのでは・・・と思い、たまたま見つけたウズベキスタンの記事を引用しました。あくまでも参考です。舛添くんとは、落合と違い、一面識もないので、その人物の実像は知りません。


ーーーー以下、ウズベキスタンよりーーーーー


家族・親族


奔放な女性関係で知られ、2度の離婚歴がある。最初の妻は留学時代出会ったフランス人。2度目の妻は官僚時代の片山さつき(当時朝長さつき)
(安総注=へ〜あの土下座お願い議員の片山かあ〜。いっつもまっ赤赤なおべべ着て、必ず安倍ちゃんの横で、私はここにいますよ〜って、一番目立つポールポジションをキープしてるあの人ね)
であり、衆議院議員だった近藤鉄雄の紹介でお見合いしたのが馴れ初めで1986年に結婚。しかし実質的な結婚生活は長続きせず、3ヶ月後には片山が弁護士に相談する事態に陥ったといい、調停を経て89年に離婚した。


1996年6月に現在の妻である元秘書の女性と3度目の結婚をし、2児をもうけている。
(安総注=舛くんの横で花束受け取った白いドレスのあの美人がその人かな。だとしたらヤッタね。デヴィ夫人が「舛くんの奥さんは創価学会の大幹部です」と演説で暴露したけど、事実なら、今回の一件、すごい納得できるわ〜。別に悪い意味ではないですよ。宗教と信仰は国民の権利で違法ではないし、安藤総理は、創価学会そのものには理解を示していますから)。
他に日本人女性2人との間に婚外子が計3人いる。
(安総注=ワォ、やるじゃんか〜。認知してるのかな。逆に大した甲斐性。ご本人同士が納得されているなら超個人的な問題、オイラは治外法権。そういえば民主党蓮舫がまだ、タレントだったころ、プロポーズして振られた、なんてウワサもありましたね)


マドンナ議員批判と不適切発言


1989年の第15回参議院議員通常選挙の際、いわゆる土井ブームによって「マドンナ」議員が大量当選したが、舛添はBIGMAN1989年10月号「増殖マドンナ議員は日本をダメにするか?」の中で、「(マドンナ議員が増えたのは)歴史的な例外の時代であって、だから、女ごときが出てこれる」「あのオバタリアンは全部“あがった”人ばかりなんでしょう」とこの現象を批判した。
また、テレビ朝日のバラエティ番組「ボロキャス」において小木博明との対談をした際、お年寄りからの徴収を目的として消費税増税を行うという文脈の中で「奴らは、金持ってんですよ! 」「1400兆のうちの半分の700兆は、ジジイ・ババアが持ってんだよ!」と発言した。
(安総注=表現の自由だし、前後の文脈がないのでコメントできません。しかし、政治家である以上、それくらいの私見を述べる必要はある。この件に関しては特に嫌悪はない)


実姉の生活保護問題


また、次長課長河本準一の母親の生活保護受給スキャンダルの発覚(芸能人生活保護不正受給問題)から、姉の生活保護受給の話が再び注目された。1992年、北九州市の担当職員が「可能な範囲で1万でも2万でもいいから仕送りしてくれ」と頼みに舛添の家を訪ねたが追い返された(元市職員談)。当時の舛添はタレント学者としてテレビで稼いでおり、億単位で不動産を買い漁っていた。といった内容が報じられているが、舛添事務所は取材に応じていない。ちなみにこの芸能人生活保護不正受給において追及の筆頭に立ったのは元妻の片山さつきであった。
(安総注=お金、持ってそうに見えるけど、これも個人の問題で、真意はわからない。もし不正受給だとしたら次長みたいに返金しないとね、元厚労大臣さん)


介護問題


2000年に実母が死去するまでの数年間は、介護のため週末は郷里の北九州市で過ごすことが多く、仕事の重点も関西にシフトさせていた。晩年認知症(痴呆症)であったこの母の介護体験記『痴呆症の母を守って家庭崩壊』を『婦人公論』に連載。母の介護問題を巡る困難や親族との軋轢などを赤裸々に描き、大きな反響を呼んだ。この体験以来、福祉や介護問題を始めとした厚生行政への働きかけや問題提起を活発に行っている。介護体験は自ら政治の世界に足を踏み入れるきっかけの一つとなり、後の厚生労働大臣就任へとつながっていった。


但し、『週刊文春』において、舛添氏が母親の介護をしていたのは平成12年(2000年)に亡くなるまでの3年間ほど週1回程度、母親の日々の介護は舛添氏の会社の取締役に名を連ねる三番目の姉が行なっていた(近所の老人談)。舛添氏が介護に携わるまで長年、長姉夫婦が一緒に暮らしていたが、母親の死も知らされなかった。
(安総注=う〜ん、何があったのだろう?ワイドショーネタだ・・・。まあ、それも個人的な問題だね)


また、舛添氏は著作で長姉夫婦が母を虐待していたと書いているが、「全部嘘」(長姉夫婦談)。舛添氏母が関わった病院や施設関係者への文春の取材では「長姉夫婦が虐待をしていたなんてことはない」といった内容の記事が掲載された。
(安総注=きょうだい仲良くしてください)


以上のような体験を持つため、外務大臣(当時)・麻生太郎の「アルツハイマー発言」には激怒。「バカと一緒になりたくない」と街頭演説の時間をずらすなど、党執行部にいながらも自由に発言した。
(安総注=その姿勢を貫いてもらいたい)