少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2179 さらばシベリア大瀧詠一鉄道


大瀧詠一さん・・・亡くなられたんでした。忌野清志郎さんの時もそうでしたけど、実感がわかない・・・。



大瀧さん自身が12月の旅人に・・・


2013年12月30日に永眠した大瀧詠一を偲ぶ関係者向けのお別れ会が、本日3月21日に東京・SME乃木坂ビルにて行われた。


本日は、大瀧のラストワークとなるアルバム「EACH TIME 30th Anniversary Edition」の発売日であり、1981年に名作「A LONG VACATION」がリリースされた日。その後のカタログもほぼ同日の発売だったように、大瀧が強いこだわりを持っていた日だった。また会場となったSME乃木坂ビルは、地下にレコーディングスタジオがあり、大瀧は晩年ここでほぼすべての仕事を行っていた。仕事場として思い入れのある、彼にとって東京の自宅と言っても過言ではない場所ということでお別れ会の開催地に選ばれた。



出席者を代表して弔辞を読んだのは、はっぴいえんどのメンバーとして共に活動した松本隆鈴木茂細野晴臣の3人。まず松本が「はっぴいえんどが、3人になっちゃいました」という言葉から静かに話を始めた。彼は大瀧との出会いや、初めて自分の詞と大瀧の曲が合体し「春よ来い」と「12月の雨の日」ができた日のことを回想。「時代をかける12月の旅人よ、僕らが灰になって消滅しても、残した作品たちは永遠に不死だ。なぜ謎のように『12月』という単語が忍ばれていたか、やっとわかったよ。苦く、美しい青春をありがとう」と、芸術的な作詞センスを持つ松本ならではの言葉で締めた。


そして、その日が突然やってきた。


会の締めくくりには、遺族を代表して妻の静子さんが挨拶を行い、大瀧の最期の様子を語った。
亡くなる2週間前に体調を崩したという大瀧。足腰が弱り「俺、脳が疲れたよ」と言っていたため妻が病院に行くことを勧めたが、3月に仕事のひとつが終わるまで病院に行くのがもったいないと言って、その後症状は快復を見せていた。
亡くなる当日の12月30日は、17時頃にスタジオから自宅に戻り、妻と日常会話をしていた。東日本大震災のことが気になっていた大瀧は、新聞を読みながら「少しずつだけど復興してるんだな」と喜んでいたという。



静子さんは「夕食前だからリンゴでも食べるかなと思い皮を剥いていたとき、突然『ママ、ありがとう!』と大きな声で言われました。
そんなことを突然言われましたので、びっくりして主人のほうを見ますと、イスにもたれかかり、ぐったりしていました」と当時の様子を克明に語ってくれた。
その後救急車に乗せて病院へ行っても、大瀧が息を吹き返すことはなかった。静子さんは続けて「当日会話をしたのは20分ぐらいだったと思います。今では会話のすべてが遺言となってしまいました。本来ならば、12月末は大好きな落語を聴いて、スタジオの整理、片付けをしている姿があったのですが、昨年はありませんでした。
亡くなる最後に『ありがとう』と言ってくれたのは、これまで主人を支えて見守ってくださった方々、またファンの方々に私から一言お礼を述べてほしいということだったと思います。この場をお借りしまして、本当にありがとうございました」と深々とお辞儀をした。





東京新聞中日・松風庵主の本日の運勢(21日・仏滅)より

智慧なくして人情厚ければ、後悔することも多い。手を慎み、足を慎み、言葉を慎めば運は上々と進む。
欲は用い方によりて生くる。私欲は身を害し、公欲は世を益す。人々のために働いて吉。陰徳は自ら喜びあり、常日頃に徳を積んでおけ。
うろつかぬとも天地は広い、悶えなくとも恵みは深い。象は牙ありて殺される、人も財貨多ければ災いを招く。 

(松風庵主)−−−−−−


「否。象は牙欲しくて牙を持つに非ず。種を保持するための牙であり、象に一厘の罪はなし」(平成芭蕉