少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2224 刻む時


消灯時間がある病院生活ほどではないにせよ、毎日が猛スピードで過ぎて行くようです。昇る朝陽を拝んでいても、欠ける満月を眺めていても、宇宙や天体のその移動の速さに一憂するのです。
表現が適切でないかも知れませんが、時の速さを痛切するのは、死期を悟った動物とか、余命宣告された患者さんとかの気持ちに置き換えたり、あるいは日々の訃報に諸行無常を感じるからでしょうか。


否です。
安藤総理が「時」の速さを感じ始めたのは小学3年生のころからです。1、2年生のころにくらべ急激に「時」の速さを切に感じるようになりました。
きっかけは「新幹線」です。
とある日曜日。東京に日帰り出張する父に連れられて、豊橋から新幹線に乗り、東京へ。車内で大好きな帝国ホテルのサンドイッチを食べさせてもらい、品川を過ぎ、東京タワーが見えてくると興奮しました。
その後の行動は覚えていませんが、その日の夕方には、すでに安城に戻り、また殺風景な景色の中にいる自分を遠くから見ていました。


その時、確実に感じたのが「時」の不思議です。
「さっきまで間違いなくに東京に居た自分が、どうして、もうここにいるんだろう」
当時、安城から名鉄で名古屋まで行っただけで、その翌日はクラスで話題になる時代です。日帰りで東京なんて、誰も信じてはくれないので、黙っていましたが、自分自身も信じられないというか、とても不思議な感覚でした。


「時は金なり。新幹線は時間をお金で買うようなもの。今はそんな時代なんだよ」と父が言ってたような覚えがあります。
それまで、東京は遠い存在で、簡単に行ける場所だとは考えてもみなかったからでしょう。なぜならば、安城には旧東海道があり、総理の小学校のすぐわきを走っています。考えてみれば、歴史のある街で、江戸時代は十日ほどかけて江戸に出向いたというわけで、輪廻転生論者の安藤総理とすれば、その時代に、この地に住んでいたやも知れません。
後に発見された家系図には、17代遡る江戸時代には岡崎出身とあるので、確信に至る史実だと思います。
当時を生きた人間としては、江戸日帰りなど考えられないことだからです。


「時」という字は「日」と「寺」です。
時計などなかった時代、寺の鐘が、唯一、刻を告げる手段でした。
「日」を告げる「寺」と書いて「時」・・・という安藤説はどうでしょうか?
仏教はインドから中国を経由して日本に伝来しました。日本でも子(ね)の刻(現代の午後11時)とか丑(うし)三つ時(午前1時〜3時)とか正午(午の時は午前11時〜午後1時。その真ん中=正、だから12時=午後0時)。
寺と時刻の関係は密接だと考えます。


もうひとつ・・・「寺」とはパーリ語(Pali=スリランカミャンマー・タイで仏典に用いた言語)でthera=「長老、長寿」の意。ギリシャ語でteraは怪物ですが、それは数的に一兆=10の12乗を示すオームの意。いずれも「時」と関連しています。


かくして一日が瞬く間に過ぎてゆきます。
昨年も書きましたが、このころになると、真剣に、来年の年賀状のことが気になります。どんな図案にしようか、何を書こうか・・。
もうすぐ正月が来てしまう・・・どうしよう、なんてね。けっこうマジなんですけど。


我々の住む三次元の先にあるのは時空を超えた四次元の世界。あの世とは時間の概念がない世界と言われています。何百年という輪廻を人は感ずることなく、転生によって、再びこの世に舞い戻る。この世で見たこともないものを観て、懐かしいと思ったり、テレビで見る知らない国の風景に哀愁を感じるのは、かつてその場所に居たという、感覚的証拠。
きょうも一日を大切にすればするほど、時が過ぎてゆく。


本日の動画アップ、第一候補「風」の「時は流れて」なし。
第二候補「松任谷由実」の「経(ふ)る時」なし。
で、「時をかける少女」で勘弁してください。
原田知世ちゃん、可愛いけど普通ですよね。
でも、さすがにユーミンの曲。「空は宇宙の海よ」・・・ってとこ。
深海生物や魚たちから見たら、人間はUFOなんでしょうね。


だとしたら・・・海洋生物から進化したのが人類という仮説が成立すれば、宇宙人(UFO)は人類の進化系で、人類は宇宙人の過去形と言えなくないでしょうか・・・。


本日4月30日・大安吉日ー東京新聞中日 松風庵主の運勢から・・・


人は何に安んじているかを見て交友すべき時なり。毎日を修行と心得れば苦難も成功の基となる。詰まらぬ事に関わっていたと目覚めて吉運来る。高山に登って天の高さも分かる。親の偉さは親の年になって分かる。旧友は去り、世の無常を感ず。されど心気まで腐らすな。

(松風庵主)


「時去りて 時来たるとき 出逢おうぞ」(平成芭蕉
(安総注=終焉の時が来て、また誕生の時がくる、そしてまた出逢う)