少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2507 ストレートを投げれた時代

「ストレートを投げれた時代」という映画を観たことがあるでしょうか?
おそらくないと思います。まだ、この世に誕生していないからです。


人はいつのころから隣人を警戒し、本心を隠したり、本心を偽ったり、本心を騙したりするようになったのか?
それらの行為が賢く生きるための知恵と定義づけるなら、それは経験の積み重ねによって、苦い経験ほどより深く心という門に厳重な鍵をかけ閉ざしていくのだろう。となれば、鍵をかける時期、鍵の数や重さは個人差が生じることになる。
「駆け引き」という言葉がある。商い、スポーツ、恋愛・・・日常のいたるところで、駆け引きは生まれて、消えて、また生まれる。すべてが自分にとって有利な方向へ導くための手段。悪いことではない。しかし、時として・・・。
しかし、時として、迎合、妥協、といった自己否定を抑制して、矛盾の渦の中に巻き込まれなければならない場面が多々訪れる。
スポーツ(野球)に例えてみる。投手は打者の体勢を崩すために変化球を投げる。打者は変化球を投げられても体勢を崩されないように準備をする。いわゆる「駆け引き」が生じる。
あらかじめ軌道がわかっているストレートに対する打者の準備は、二次元空間の中でスピードという速度感覚の調整だけで済む。ところが変化球となると、これに縦横の移動が加わるため三次元の空間感覚と速度感覚が重なり、より大きな準備が打者に要求される。
では、変化球がストレートより有利かと言えば、そうとは言えない。ストレートより速い変化球は力学上存在しないからである。


文章にすると、硬くつまらないものに感じるが、我々は、日常、こんな作業を繰り返しているのだと、私は思う。市場や露店で野菜や果物や骨董品を買う時のやりとり、好きな子をデートに誘ったり、口説いたりするとき、親に小遣いをせがむ時、弟に車を出してもらう時、兄弟でチャンネルを争う時・・・ひとりでいるとき以外、誰かといる時は、親しい家族や恋人や友人に対しても、無意識に変化球を投げ、相手の顔色をうかがいながら、迎合と妥協を繰り返し矛盾の海を泳ぎながら生きている。その方が上手くいく。無駄な衝突を避け、自身を偽り、殺しながら生きた方が、平和で長生きできるからだ・・・と経験と本能と教育(教科書、How to本)が、ストレスという代償と引き換えにそう訴えている。


しかし、そんな風に無理をしなくても、毎日、溌剌に生きることが出来た時代が誰にもあった。
そんなに遠い過去ではないはずなのに、人間の一生は宇宙の蜻蛉。日々、一年、十年、そして終年。人生の絡繰り時計は、気がつけば終わりのないメビウス、だから気づかない。諸行無常という虚しい悟りを知るころ、人はもうストレートを投げることはできないのだろうか・・・。
そんな、輪廻を描いた作品が、私の頭の中にあります。