少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

3483 明治本PR4

1/10/19

 

明大校友の皆さま、FBFの皆さまおはようございます。安藤貴樹です。決戦まであと3日、ドキドキです。本日は「雨の慶明戦」のデモ原稿を投稿させていただきます。長文ですが、最後までお付き合いいただければ嬉しいです。また批評等も歓迎いたします。

 人間の形をした氷柱(ひょうちゅう)が立っていた。体温が冷気より低いから湯気が出ていない。あるいは氷より冷くなったのではないか、そんなふうにも見えた。南隆雄主将の唇から生気が消え、全身が小刻みに震え出していた。凍死を防ぐための人体の防衛本能だ。南が意図した震えではない、自律神経が生命の危機さえ感じはじめていたのだ。指が、腕が、膝が硬直して動かない。血液が冷え切って毛細血管が閉ざされ、末梢神経が反応できない。濡れたジャージは冷気の中でフィフティーンの体温を容赦なく奪った。特にBK陣は攻撃用のボールの配給に集中し、あるいは防御に備えて息をのむだけだった。身体を動かす時間よりも待つばかりの時間が続く。体温を無数の雨粒に吸い取られ国立の芝を温めた。ハーフタイムのロッカールームでは、冷え切った南の身体を大男が抱きしめていた。身長xxセンチの右PRの篠原俊則だった。前半40分間、スクラムやモール、ラックで常にボールに絡んでいたFW陣の血液は温められていた。雪山の遭難者にするような、そんな思いでずぶ濡れのジャージの上から自身の体温を南に与えていた。篠原は北海道・帯広工高で主将を張っていた。4年生になって初めて掴んだレギュラーだった。この試合に勝てば大学日本一だ。雪の早明戦より2シーズン前のいわゆる雨の慶明戦。昭和61年(1986年)1月4日、第22回大学選手権決勝戦。 
 雨のゲームは初めてではない、だがこの日は特別に寒かった。ハーフタイムで一旦ロッカールームに引き揚げたずぶ濡れの両チーム、明治と慶応の明と暗。このシーズンより、両校の選手がハーフタイムにロッカーに戻ることを許されるシステムになった。以前はノーサイドまでグランドから出ることは禁止されていた。そんな新たな試みを慶応はあらかじめ意識していた。慶応はすべてを想定して用意した新しいタイガージャージに着替え、心機を一転した。前半を振り返り、後半戦に挑む方針を再確認し15人が士気を高めて魂の一丸となる。鉛のように重く氷のように冷たいジャージを脱ぎ捨て洗濯したてのふわふわに身を包む、これで生き返った。
 同時刻の明治、ジャージに染み込んだ雨水が1月の冷気で氷の鎧となり選手の毛穴から侵入して血液の温度を下げる。冷えた血液は全身を廻り、温めようとする自律神経と激しく戦うのだが強い雨がさらに追い討ちをかける。勝てない。自律神経を応援する精魂は限界に近づきつつある。冷たい血液が脳の判断と身体の動きを正常から少しずつずらしていく、これが生物の摂理。
 なぜ、明治はジャージを代えなかったのか?そこには明治ならでは独特のジャージに対する思いがあった。明治は早稲田や慶応とは違い早明戦、慶明戦前夜に厳かなジャージ授与式なるものを恒例としていない。かといってジャージそのものを便宜上のユニホームという単なる横縞の布という価値に捉えている訳ではない。北島監督は「相手が早稲田であろうと、慶応であろうと、そうでなかろうと、常に同じ気持ちで全力で戦うこと」を部員たちに義務付けている。つまり特定の試合だけを意識するような儀式的なことは北島の意に反するのだ。常に「いつも通り」こそが北島の意であり「練習通りのプレー」のみが、北島が選手に求めていることなのである。ジャージ授与式で士気や緊張感を高め精神を高揚して臨み「普段以上のミラクルプレー」を期待するのが早慶なら、北島明治は、すべてを普段通りに消化させ「普段の力を出し切る展開」のみに集中する。基本プレーにはないミラクル的(偶然的)なプレーは必要としないのだ
 
中略
 
 静かな怒りだった。試合後のロッカールーム、霞ヶ丘国立競技場の北島忠治85歳。苦しい戦いだった。明治のフィフティーンが無言で俯いている。敗れたわけではない。リードされていた試合で12–12の同点に追いつき、逆転にこそ至らなかったが両校優勝でx回目の大学日本一に輝いた。本来なら祝勝のはずのロッカールーム。凍る寸前の雨は針のよう尖って紫紺のジャージを貫き選手たちの肌を刺した。だが、寒さはその痛さえも麻痺させ肉体より精神に苦痛を与えた。鉛のように重くなった木綿の鎧から早く抜け出し、温いシャワーに頭から浸りたい。このまま倒れてしまいたい。
「あそこはスクラムだったんじゃないのか」
 北島忠治が監督として、試合を振り返り、選手を諌めるというのは極めて珍しい。血気盛んなころならともかくとして80歳の齢を超えた北島が穏やかにではあるが、試合後のロッカールームという極めで閉ざされた場所で、心の拳を静かに震わせたのは、おそらくそれが最初で最後の出来事だったはずだ。 
 明治が3点ビハインドの後半30分。ノーサイドまで残り10分。敵陣左中間G手前15m付近で得たペナルティにSH・南隆雄主将は一瞬だけ躊躇した。ラグビーはキックオフでゲームが始まった瞬間からキャプテンが現場の監督となり、すべての選択権を持つ特性がある。相手の反則で得た特典をどう活用するかはキャプテンが瞬時に判断しなければならない。テレビの画面からは南が躊躇なくPGを選択したかのように見えたが実は違う。南は迷っていた。
 まず南はFWをに目をやった。雨で視界は遮られていたが力強い自信のような瞳の感覚を南は得た。すると後方から「隆雄、狙え狙え」という声が飛んで来た。左CTBの出向井豊だった。中学時代からずっと南とラグビーをやってきた男である。迷う南の背中を押した。南は右の耳で出向井の声を聞き、左の目でFWの足を見た。南は自身の指で「10」という数字をつくりFWにサインを送った。それは「とりあえず同点にして、あとの10分で攻め込んでくれ」という南からFWへのメッセージだった。ところがFW陣にそのメッセージは届いていなかった。
「正直いうと、出向井の声は覚えていないんです。FWもPG狙いを理解してくれたと判断しました」と南は振り返る。
 結局、南は「とりあえず同点」のPGを選択し思惑通りの同点に追いついた。ところが明治の唯一の武器・重戦車FWが慶応の唯一の武器・炎のタックルに前進を阻まれる。あと1メール、いや30センチ、違う、正確には数センチの単位で楕円球を敵陣ゴール前まで運ぶのだが、最後の白線に届かない。重戦車の足の回転がわずかに空を回る、大地の奥深くまでスパイクのポイントが刺さらない泥濘んだグランド。膝の関節に飛んでくる慶応のタックル。慶明ともに生きて戻るつもりはない。死をも厭わず突進し、死をも恐れず食い止める。もはやスポーツの域を超えた肉体の潰し合い、その先に一体何が待っているというのだろうか。
 結果だけを見ればは12 -12の引き分けに終わり、勝ったわけでもないが負けたわけではない。事実を書けばそれだけのことである。だが、北島忠治、いや北島ラグビーはそれを潔しとしなかった。
「いまでも僕は、あれ(PG狙い)は正しい選択だったと自分を信じています。確かにFWは徐々に調子が出てきてこのまま押す気持ちでいたことはわかっていました。でも、まだ残り時間は10分ありましたから、この勢いであと10分あれば、十分にトライできるチャンスがくると踏んでいたんです。FWにも指で1と0を作り、あと10分あるからここはPGを狙うぞという無言の意思表示で了解は取れていましたから。ラグビーのセオリーからしてもあの状況で残り10分でのPG選択は間違っていないはずなんです」
 南の懐述に否定の余地はない。その通りである。何が悪い?
 ラグビーはよく人生になぞられる。何故ならば選択の連続の競技であるからだ。押すか回すか、回すならオープンかブラインドか、上に蹴るか転がすか、瞬間的な判断とさらにどちらに転がるかわからないアンコントロールの楕円球が相手である。イレギュラーバウンドを前提にした陣取りゲーム。不測の事態を予測する矛盾との戦い。力とスピードだけでは突破できない魂という精神の壁。そして科学を超えた運の存在。それぞれの人生に当てはめたら、これほどしっくりとくる競技はない。両チーム合わせて30人の選手が鬩ぎを凌ぐスポーツは地球上に今のところラグビーを置いて他にない。瞬間ごとに変化流動する人間模様は、まるで人生という名のジグゾーパズルのワンピースのようである。
 だからであろう、たったひとつの選択やプレーについて多くの人々が、己の人生の集大成のようにそれを熱く鋭く語る。明大ラグビー部部史の中でも南のこの選択に言及されている。
「試合後PG狙いは、明治らしくない弱気だったという意見と、トライは必ずしも取れるとはいえないないのだからPGの選択は、間違っていないという反論とがあった。中略。南主将の判断は決して間違っていたとはいえない」(明大ラグビー部部史より抜粋)とある。つまり賛否両論だ。これは引き分けではなく、勝っても負けても永遠に続く論議になろう。
 だがラグビーとは、いやスポーツのほとんどが結果から検証に入り、その時点まで遡ってプレーに対する判断の正否を追求する性質を持っている。次なるステップを前進させるためにはある意味必要な工程ではある。反省と修復の繰り返しこそが前進への礎だ。だとすれば北島の叱責もまた理に適う範疇ではないか。

ー燻り

「もちろん明治はFWのチームですから、FWで押すのが明治のラグビーというのはわかってます。でも勝ちたかったんです、どうしても。僕らは、そう、明治にきた選手は、全員が大学で日本一になりたくてここにきたわけですからね。とことん勝ちにこだわりたかったんです」
 南はあのPGからxx年経ち、社会人となり後人を指導する立場にある現在もあのロッカー室の北島の言葉がすんなりと喉を通過しない。つっかえたままでいる。
 そしてもうひとり、燻(くすぶ)りという呪縛から解放されていない男がいる。南と同期のHO中村紀夫だ。中村は現役の東大合格者を多く輩出する進学校城北高校の出身である。父も兄も明治、それが中村が明治に進学したきっかけだった。父xxは黒帯四段の柔道部、そして兄xxはラグビー部、同じHOのポジションだったが怪我のため現役を退かなければならなくなった。重症な頚椎捻挫で日常生活にも支障を来たすほどだった。将来のことも考え、迷ったあげくに大きな手術に踏み切った。30年以上前の話である、医療技術も今ほど発達はしていない。本人も家族も成功を祈るしかなかった。手術は上手くいったが、とても明治でスクラムを組むことはもうできない。それでもラグビーが好きで主務に転向した。そんな環境から紀夫は兄を追って入部した。ちなみに明大第xx代主将を務め、現在はサントリーサンゴリアスでやはりHOとして活躍している中村駿太(桐蔭学園)は紀夫の倅である。明大一家だ。

「誰か余ってるヤツ呼んでこい」
当時の明大主将で日本代表のHOだった藤田剛が自身の練習台を探すために呼ばれたのが同じポジションなら誰でもよかった一年生の中村紀夫だった。
「せーの」ドン!「せーの」ドン!何度も何度も繰り返されるスクラム練習。すると藤田が脇を支えるPRの佐藤康信(2年 秋田市立高)に言った。「おい佐藤、もっと強くバインドしろ、この一年坊主なかなか強いぞ」。まだ名前など覚えてもらえない、数多いる一年坊主のひとりである。佐藤とて4年時に主将になる実力者である。このふたりの頭と頭の間に頭を入れ両肩で押し、首を取りにいく。藤田と佐藤の首を下からえぐるようにして持ち上げる。この繰り返しの作業で兄はもうラグビーができなくなった。しかも相手は日本代表の藤田剛。同じチームにいたとして一年坊主が組める相手ではない。
「とにかく必死で足を動かしていたことだけは覚えています。恐怖とかそんなの感じる暇なんてなかったですよ」と中村は振り返る。
 練習後、藤田が佐藤にかけた何気ないひとことを、間近で見ていたFWコーチの齋藤遼が藤田に確認した。「おい、あの1年生、そんなに強いのか」。藤田は正直に答えた。それを機に中村は四本目から二本目、つまりBチームへ昇格した。藤田が卒業してから中村はポジションを掴んだ。2年から卒業まで早明戦には3回出場している。
 その中村が今でも時々、年に何回か夢でうなされるという。トラウマというやつだ。夢の中で雨が降っている。ここはどこだ。誰も居ないスタンドと芝生。グランド?ラグビーか?
 夢はモノクロからセピア色に着色されていく。ああ、あれか、黒と黄色、慶応かぁ。夢の中でスクラムを押す自分がいた。泥濘んでいる、掻いても掻いても足が前に進まない。なんでだ。またか掻く、そして掻く。夢の中でもがく。掻いた足が布団を捲りあげ、目が覚めると汗をかいていた。粘りまとわりつく嫌な汗だった。
「吹っ切れていないんでしょうかね、自分の中で、あの試合のこと」
中村は慶応との雨の日を思い出していた。
「とにかく掻いても掻いても前に進んで行かない印象だったんです。グランドが凄く泥濘んでいて。でもふと気がつくと、自分たちの感覚以上に前進していたんですね。ああ、これならそのまま行けるぞって感じました。蹴るかどうするか、隆雄は完全に迷っていましたね」
 雨にも土にも芝にも罪はない。しかし、優勝校の一方には燻る思いがある。
「あの時・・・」
あの時、言えなかったひとことが紀夫の胸に燻る。
「自分は隆雄と同期ですから、なんであの時『FWで行かせてくれ』って言えなかったんかな、って。結果は結果ですからどっちでもよかったんですけど、あれだけ自信があったのに声を出して隆雄に言えなかった自分自身が悔しいんです、今になってね。後悔ですね」
 タブーを承知でタラレバを書く。中村が「FWで行かせてくれ」と声に出していたら南はどう判断していたのだろうか。解答のできない質問に意味はないが興味はある。興味はあるがその回答を求めることがラグビーではない。北島忠治が求めているのは結果ではなく道程なのだ。

中略

コンクリと鉄の冷たいロッカールーム。吐く息が白い。紫紺のジャージから湯気が出る、少しだけ体温が戻った証拠である。そして短い沈黙。二本の足と杖で身体を支える北島の指と指の間には短くなった煙草が、あとわずかな火を燃やし、忠治が最後の一服をすると部員が灰皿を差し出した。静かな怒りは増幅することはなかった。
 「隆雄」
 「はい」
南は北島に、下の名前で呼ばれた。緊張した。
「いい勉強になったな」
「はい」
 北島の言葉はそれだけだった。北島が煙草一本を燻らす時間、おそらく二分、長くて三分。北島がロッカールームにいた時間は五分とない。
 北島は何を南に伝えたかったのだろうか。あのタイミングでのPG選択、確かに南が言うように少なくともグランド上のラグビーにおいてはセオリー通りだったと言える。しかしそれは北島ラグビーのセオリー、つまり哲学ではなかったとしたらどう解釈すれば良いのだろうか。とりあえずの同点は人生に置き換えれば「安全策」とも言えなくない。安全策が悪いのではなく、そこに潜む「安心」と、そこから発生する「油断」を嫌ったのではないかと想像する。おそらくだが人生もそうだ。安心の中で生きる人生を否定しているわけではないが、北島哲学は背水の陣から生まれる直向きと一生懸命にもがく姿勢ではないのだろうか。100%成功という保証のないラグビーにおけるPGを安全策と断定はできないが、スクラムで押すよりは得点の可能性が高いのは事実である。それが、自分たちが練習で培ってきたことではなかったとするならば、北島の発言は辻褄が合う。
「あの時のロッカールーム、先生に怒られたとばかり思っていて、いたたまれなかったのですが、先生の最後の一言で、とても救われた気持ちになりました。社会に出てわかったんですけど、やはり日々の生活や仕事の中でも迷ったり、避けたりしたいことがあります。そんな時、先生の言葉を深く感じます。『何事も避けずに前へ進め』。日々の自分と照らし合わせると、恥ずかしくなりますけどね」
 この五分間と北島のわずかな言葉でで南は多くを学び、その後の人生の糧としている。

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