少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

5643 一杯のお粥と二本の水 その3

2/17/21

『一杯のお粥と二本の水』その3

確かそうだったと思う。深い記憶はない。
「まだ、自力で歩けない。もう少しここで横にならせてください」
「いえ、ダメです。家の人が迎えにこられないならタクシーをお呼びします。それでいいですか」
ガラスの破片を口内でジャリジャリさせるような看護婦の冷たい響き。
せめて、この居心地の悪いストレッチャーから起き上がる作業だけでも手伝ってくれれば、と思いつつ、長い時間をかけて自力で起き、車椅子へと移る。

「忘れものはなですか?」と黒のリュックを渡される。2年前の暮れに在庫一掃半額セールで3000円で買ったやつだ。元が6000円なら自分には高価なリュックと言える。
あれ、杖がない。
「すみません、杖がないんです。杖知りませんか?」
「はぁ?杖?どんな杖?自分の?病院の?」
なんだ、このとっとと失せろ感は。

待ち合いにポツンと立て掛けられた私の3本目の足、もとい、4本目の足を見つけ、車椅子を自力で漕ぐ。
そんな車椅子の私に事務の優しい声の女性が耳元で甘く囁く。
「安藤さま。本日のお会計、1万4000円になります」
おい、ちょっと待てい。
「ご安心ください。一応、お預かり金額です。後日精算して残金はお返しいたします」
抵抗も反抗もする気力無し。今の警備隊員なら、どんな書類にでもメクラ判押したる。日刊ゲンダイ時代、機嫌の良さそうな、あるいは酒の入っている上司を探して請求書に判を押させるテクを身につけた。

病院1階ロビーに辿り着くも外にタクシーの気配無し。誰かが乗って来るのを待つこと40分強。その間、ほとんど意識無し。寒かったことのみ記憶。
するとそこにひとりの女性が。
「あら、やだ、どうされましたか?」
「タクシーを」
「あ、え、ちょっと、ちょっとここで待っててください、動かないで、私探してきます」
彼女、朝のシャンプーの残り香と、一日(ひとひ)の労働を終えた女性特有のホルモンが混じり合う夕方の女性独特の甘香を残してドアを出た。

あたりはすでに漆黒。来た時の空色は青。自然界の急激な変化に不安を覚える。そこへ彼女。筋書きのないドラマ。

数分後。

「見つけてきましたよ。荷物は私が持ちますから。歩けますか?」
「あ、はい」
「私につかまって。体重かけても大丈夫ですから、遠慮しないで」
「看護婦さん?」
「そうです」
ま近で見るとかなりの美形。事実は小説より奇なりだ。
「ご家族の方、いらっしゃっいますか」
「あ、はい、います」
(いや、実はいません)
「大丈夫ですか?」
「はい、大丈夫です」
(いえ、ぜんぜん大丈夫じゃありません。お姉さんの部屋に連れてってください)

気の利かない運転手はドアを閉めやがった。
後部座席、空いたドアの方だけに微かに残る彼女の残り香の残りをすべて吸い取ると、タクシー特有の塩素系の消毒液だけの、事務的な匂いに戻った。
ああ、正直に、自分の本心、本能を曝け出し、素直になれない気の弱さと、日本人特有の奥ゆかしい遠慮や侘び寂びの精神、寅さんゆかりの「顔で笑って心で泣く」気質が抜けきれない己の不甲斐なさ、もどかしさ。
どうせ彼女だって独り暮らし。コンビニ弁当、いや、スープストックのテイクアウトにオムスビひとつ。アプリコットのトイプー3歳オスのマッハ君が待っているだけ。彼女のためにも、自分に正直になるべきだった。

こうして人と人は、ヒューマンスクランブルという宇宙誕生時間分の一瞬と言える奇跡の確率、運命的な出会いを、雨の一滴と同じようレベルで見逃してしまうのだ。

そういえば、思い出した。
雨が降っていた。
傘はなく、冷たかった。
あの子のベージュのコートにも雨の粒が見えた。

つづく

http://chamy-bonny.hatenablog.jp/entry/2021/02/16/225337