少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

139  1月の12月文庫

昨1月8日のお話です。久々に井の頭線・池ノ上にある「12月文庫」にぶらりと徒歩で行きました。「12月文庫」は明大の後輩のTOMOKOちゃんが経営している小さな古本屋です(09/09/24日付、NO52参照)。
今年で10年目だか、11年目だか、開店時よりのお付き合いですが、継続は力なり、よく頑張っていますね。
僕の自宅から彼女の店に行くときに通る中野通り。渋谷までのバス通りですが、昭和30年に計画された道路の拡張が、50年後の現在になってじわりと進み、2か月間日本を離れた隙に、また数軒、40〜50年来の老舗の小さな飲食店たちが、根こそぎ破壊され、むき出しのコンクリートの土台だけが無残に残っている有様に唖然としました。
これから人口も車も減る中、道路を拡張して何をどうしようというのか、意味不明の行政に己の無力が、東京の寒さと重なります。
途中、無添加のクレープを販売するこだわりの店があります。小さな店で起業した若者がこだわりを売り物にするのがよくわかる店構えで、通るたびに気になり、中を覗くのですが、クレープ1個700円の壁に足がすくみ、どうしてもその境界線を越えることができず、この日も中を覗くだけに留まり、牛丼2杯分と秤にかけてしまう自分を可愛く思いました。
久しぶりに訪ねた12月文庫は盛況で定員2名のテーブルは満席でした。仕方なく僕は、12月文庫の対面にある、愛想のないおっさんの古本屋でしばらく時間をつぶし、頃あいを見て12月文庫に戻りました。
明大文学部英米文学出の彼女にしてはフランス文学書が多い。聞けば「確かに仏文の方をよく読んでました」と彼女。僕は文学とは対極の立場にある人間。それでもランボーの詩集など手に取りぱらぱらとめくってみる。気にいった詩があったので、ランボー詩集200円なりを買うことにしました。

「戸棚」(ランボー) 
彫のあるデンとした戸棚。総欅(けやき)
古いぞこいつ。老齢者(としより)の善良な様子。
この戸棚、開かれていて、自分の影に流し込む、
古葡萄酒(ふるぶどうしゅ)を注ぐような、人の気をひくいい匂い。
中はぎっしり、古物でいっぱい。
黄色くやけて、プウーンとくる肌着、
婦子供(おんなこども)の古着類。褪(あ)せたダンテル。
祖母(ばば)さまの唐獅子模様の肩掛や。
まだ、見つかる、なつかしの思い出秘めた飾りメダル、
黒髪や白髪の毛房(けぶさ)、肖像画
果物の香と匂う昔の押し花。
昔の戸棚、お前こそ、どっさり話を持ってるな!
話がしたくてたまるまい、そうらしい、
そっと開け閉(た)てするたんび、お前の扉がきしむもの。

どうでしょうか?
いつだったか(引っ越し貧乏の章?かな)僕の家にもおじいさんの時計ならぬ、おじいさんの本箱があると書きましたが、なんかそんな感じで気にいってしまいました。僕ら骨董屋から見ると、物言わぬ物たちの声が聞こえてくることもあるのです。それは中島美嘉が「桜舞うころ」という唄で見事に表現しています。
あと「大杉栄」の人物本600円も購入しました。僕のひいおじいさんが早稲田の教授になる前の陸軍大学の教授時代に大杉栄氏が、就職斡旋の依頼に訪れたという記述を最近、ネットで見つけたので、少し知識を入れようかと思ったのが購入の動機です。記述によると、ひいおじいさんは四谷で仏語の専門学校を開催していて、大杉氏はそこの生徒だったとか。明治時代の話です。
その他、昭和43年の第50回全国高校野球選手権大会(甲子園)を記念して制作された市川菎監督の「青春」という東宝映画のパンフレットを見つけました。記念大会の出場校のメンバー表が小さく出ていたので老眼と闘いながらチェック。ヤクルト担当時代、大変お世話になったマネジャーの松井優典さんが和歌山星林高校の捕手として掲載されていたので、いつか贈呈しようと思い買いました。
松井さんは、捕手として南海に入団するも、当時の野村監督に見切りをつけられヤクルトにトレードで放出されました。引退後はその人格や面倒見の良さからマネジャーに抜擢され、裏方に徹し、報道陣からも一目おかれる好人物でした。その後、野村監督がヤクルトの監督に就任するや、ヘッドコーチに抜擢され、野村監督の懐刀として阪神楽天と野村監督の最大のブレーンとなって渡り歩いた人物です。
懐かしいので松井さんの他の主要メンバーも書きます。
太田幸司(青森・三沢)佐野仙好(群馬・前橋工)島野修、東門明(ともに神奈川・武相)新浦寿夫、藤波行雄(ともに静岡商山口高志(市立神戸港)太田卓司(大分・津久見)・・・。
さて、野球好きの方なら武相高校の島野修氏はご存じでしょう。ドラフト会議で巨人に1位指名され、当時明大4年の星野仙一氏から「島と星の間違いじゃないのか」と言われ有名人になった人であり、星野さんをアンチ巨人にした間接的人物です。引退後は阪急のマスコット「ブレービーくん」として活躍し、現在のドアラやツバクロウなどのキャラクターの先駆者となった人物です。
そして島野選手の一年後輩にあたる東門明選手をご存じでしょか。武相高卒業後は一般入試で早稲田に進学し、2年生で三塁のレギュラーを獲得した選手です。
しかし、とんでもない悲劇が彼を襲いました。第1回日米大学野球選手権大会で東門選手は2年生ながら日本代表に抜擢されました。
当時の主要メンバーは山口高志(関大)山本功児長崎慶一(ともに法大)山下大輔(慶大)藤波行雄(中大)とプロドラフト1位候補がズラリ。そんな中での2年生での抜擢で将来を大いに期待されていたことは言うまでもありません。
当時、中学1年で愛知にいた僕でしたが、この試合のどれかを神宮球場で見ることができました。ですから忘れることのできない名前です。
悲劇は昭和47年7月9日の第2戦の7回に起きました。代打で登場した東門選手は三遊間安打で出塁。続く藤波選手の二塁ゴロのとき、ダブルプレーを狙う、遊撃手の一塁への送球が一塁走者の東門選手の頭部に至近距離から直撃したのです。
今でこそメジャーリーグのプレーは格闘まがいの印象がありますが、第一回の日米交流試合では、誰もそこまでは考え至らなかったに違いありません。
東門選手は意識不明の重症のまま慶応病院に搬送されましたが、一度も意識を取り戻すことなく5日後に息を引き取りました。まだ19歳という若さでした。
東門選手の早稲田での背番号は「9」。早稲田では永久欠番です。また大学日本代表の「13」も、当時、東門選手がつけていた背番号で同じく永久欠番となっています。
僕は、当時、新聞の片隅に出ていた東門選手の訃報を告げる小さな切りぬきを今も捨てられずに持っています。
「12月文庫」ではアナログで聴けるベートーベンのピアノ葬送曲をリクエストしてコーヒーを2杯飲みました。
TOMOKOちゃんはパソコンをやらない人なので、僕のブログを読んでいません。「きょうのことも少数派日記に書いておくよ」と僕が言うと「ここを少数派のお店にしないで」と彼女。
お茶が飲める座席数2席。それもみかん箱にケツを入る程度の隙間で、東京の土地活用を最大限有効利用しているなと、石原都知事から表彰されるようなおしくら饅頭的心地良い空間。少なくとも僕が居た夕刻の2時間はひやかし客のひとりも居ない状況に「間違いなく少数派の店として認定してあげよう」と僕。
油紙で一冊一冊丁寧に包装された古書たち。入れ方を教えてくれないコーヒー。なぜかおいしい水。石油ストーブだけの暖。アナログなレコードとアナログな店主。これが正しい古本屋の在り方と「少数派」に絶賛される残念な「少数派」。
本とコーヒーで2100円の精算を済ませた僕は「まだ、行ったことないけど美味しいらしい」と言うTOMOKOちゃんが中途半端な推薦をする斜向かいのネパール人のカレー屋「ブッダ」でキーマカレーとココナツカレーのセットを注文しまた。客は僕ひとり。カレーは美味しかったけど、この寒い東京で暖房なしはないだろう。エベレストでビバーグした気分まで味あわせてくれなくてもいいんだよ・・・。
思いっきり寒い空の下、ひとりとぼとぼと自宅へ帰る途中、カップルでジョギングしているバカとすれ違う。異次元の人たちだ。
家族経営の小さなスーパーへ入る。閉店時間が近いため半額になった「お稲荷さん」と「かんぴょう巻き」を明日の朝食用に買う。ついでに79円のガーナチョコと「オトコ香るガム」148円も。
自宅に戻り、ブログを書きながらガムでも噛もうと、レジ袋を漁るが、ガムがどこにもない。「あのおっちゃんやってくれたな・・・」。
ずいぶんくたびれたおっちゃんが、凍えそうな手つきでレジ打ちしていたから、きっとガムが小さすぎて入れ忘れたのだろう。まあ仕方がない。みんなこの冬空の下で凍死しないように頑張りましょう。