少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

177  惜別・ガルシアパーラ

また、僕の好きな選手がグラウンドを去りました。アンソニー・ノーマ・ガルシアパーラ、35歳、メキシコ出身のメジャーリーガー。
三塁もこなしましたが、僕は遊撃手の時の彼の地味で淡々とした職人肌のプレーが好きでした。現在、同世代のメジャーを代表する遊撃手としては天下のデレク・ジータであり、マリナース時代のA・ロッドですが、ジータは優等生でありロッドはスーパースターで、それに対しガルシアパーラは感情をほとんど表に出さないタイプの選手でした。
そのせいか、誤解を招くタイプで、言葉も少なく、マスコミからもあまりよく書かれない存在でした。
グラウンドでは結果を出すが、マスコミ的には面白くない。悪意はないが、人を近付けない人見知りタイプ。日本選手で言えば野茂選手のような存在です。
ガルシアパーラは大学卒業後95年のドラフト1位(全体12巡目)で松坂のボストン・レッドソックスに入団、1年ちょっとをマイナーで過ごしてからメジャー昇格して97年に新人王を獲得。99年は打率・357、00年には・372の驚異のハイアベレージで2年連続首位打者を獲得。しかし、元来の無口が禍し、チーム内で友達もできず孤立。加えて契約問題でも球団と対立し、結局04年のシーズン途中の7月29日にチームから追い出されるかたちでシカゴ・カブスに放出されました。
その年、故障もあり絶不調のガルシアパーラは42試合、打率・292、4本塁打、20打点と期待されての入団だっただけに、カブスのファンからも激しいブーイングの嵐を受け、傷心。その一方でレッドソックスは86年ぶりのワールドチャンピオンに輝き、マスコミのコラムにはお荷物のガルシアパーラがいなくなった功績とも書かれ、ダブルショックを受けるのです。チームの功守の中心として活躍してきた彼に、神が寄こしたプレゼントはあまりにも冷ややかで苦いものでした。
なんだか、こういう運命の人って、僕らの身近な社会にもひとりやふたりは居そうです。だけど僕は彼のプレーやポーカーフェイスの姿勢にプロの雰囲気を感じ、とても好きでした。
その翌年、ガルシアパーラはFA宣言をしますが「終わった選手」と評価され引き取り手もなく、カブスで安い条件で再びプレーします。モチベーションもなく腐ったガルシアパーラの成績はわずか62試合の出場で、翌年、カブスを追い出され、今度はロサンゼルス・ドジャーズへ。
もう遊撃を守れなくなったガルシアパーラは外野や一塁へコンバートされましたが、この06年にカムバック賞を受賞しました。実は、このシーズン前に第一回WBCが開催され、ガルシアパーラはメキシコ代表として打診されましたが、再起をかけシーズンに集中したいとの理由で代表の誘いを断り、ここでもまたメキシコ球界から非難されます。
つまり、自分の気持ちを上手く表現することができない不器用な人なんです。
この年、僕は幸運にもドジャースタジアムで生のガルシアパーラを3試合観ることができました。遊撃ではなく一塁の守備でしたが満足です。メジャーでも早打ちで有名なので、初球からガンガン打ってくるタイプなので、配球の駆け引きを楽しむ間はありませんでしたけど・・。
ところでドジャースタジアムでグッズの売店で選手の折れたバットをサイン入りで売っています。金額は選手の人気により約100ドル〜200ドルです。ちょうど3試合目、イチローのように滅多にバットを折らないガルシアパーラがバットを折ったので、僕はなんとかゲットしようと売店に走りましたが「明日以降でないと店に出ないよ。しかもガルシアのバットは人気だから、たぶん予約が複数入っているだろう」と店員のつれない応答。泣く泣く、売店をあとにしました。
折れたバットに2万円。わからん人にはわからんでしょうが、わからなくてもいいのです。
最後、ガルシアパーラはアスレチックスに移籍し、事実上、現役生活の幕を閉じました。しかし、引退発表をしたのは、今年3月10日、古巣のボストン・レッドソックスマイナー契約を済ませた直後のことでした。
厄介者として、お荷物扱いされ放出されたボストンでしたが、ガルシアパーラは「最後はこのユニフォームの選手として現役を終えたい」というのが、彼の、あの放出された日からの願いでした。彼は、自分を追い出したチームをずっと愛していたのです。
球団も異例の計らいで、ガルシアパーラの希望を叶え、ガルシアパーラは記録上、最後は本当にボストン・レッドソックスの選手として、2010年度の成績は出場記録0で現役生活に幕を閉じました。素適な話でしょ。
アンソニー・ノーマ・ガルシアパーラ選手14年間のメジャー通算成績。
1434試合、1747安打、229本塁打、打率・313、オールスター5回出場、ワールドシリーズ出場回数0。