少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

867 mikutyanの日記

ごく最近のことですが、偶然「mikutyanの日記」というブログに出会いました。郁代さんというお嬢様を若くして病で亡くされたお母様がつづられている日記です。すでにご存じの方も多いと思われますが、24時間テレビなどでも、放映され、出版もされています。
しかし、このめまぐるしい現代において、近い将来にはあの3・11ですら風化されてしまうのが現実世界です。9・11NYだって、御巣鷹山JALだって、当事者の方々以外は悲しいかな他人事になってしまうのが世の常です。日本国内においても45秒毎にひとつの命が消え去る現実を思えば、すべてが風と化してしまう現実を責めるすべはありません。
「mikutyanの日記」では、そんな娘さん(郁代さん)の存在が、今、現在も、具体的にさまざま活動を通して、そこに居るという印象を与えてくれます。それは郁代さん自身であり、郁代さんの影響を受けた方々が引き継いだ形であり、さまざまですが、世界や日本や地球や家庭や東北地方が逼迫(ひっぱく)した今こそ人間に求められる原点のような道理を感じさせられました。
本日1/9の「mikutyanの日記」のタイトルは「自力無効」です。内容はブログを読んでみてください。
僕自身、僕が受け持つある患者様が亡くなられてから、不思議なくらい物欲というものが無くなりました。自身の無力を徹底的に味わった瞬間です。それは「シンドラーのリスト」という映画をずっと以前に観て、クライマックスのシーンで感じたことが現実となった瞬間でもありました。
東京中日スポーツを辞めた理由は東京新聞の先輩記者・千葉敦子さんの著書を読んで、当時、まだあまり知られていなかった「ホスピス」の設立を計画したためです。その資金と協力者を集める手段のひとつとして「がんと生きる」という月刊情報誌を創刊する企画を立てました。とにかくあらゆる治療法、完治者から情報を集めまくって、ただ羅列する。どの方法がいいかは読者の判断にまかせ、いざ自分が、そうなった時の、知識、情報として読んでいただく、というコンセプトで可能な限りの出版社を当たりましたが、当時はまだ、癌を告知、公表すること自体がタブー視されていた時代で「それは売れない」と一蹴され挫折しました。
もう二十年以上前の話です。草案では「癌と闘う」というタイトルにしたのですが、当ブログによく登場するDr・Mの助言で「がんと生きる」に変更しました。今、そんな雑誌をちらほら見かけますが、ようやく、そんな時代(ありがたくはありませんが)が来たのでしょうね。
医者でもない僕が、昨年6月に中国・広州で日本人向けの医療福祉施設の建設に目前で頓挫してしまい、愕然としましたが、今年も引き続き、中国での医療の分野で貢献できればと思っています。
たまたまですが、書斎の整理をしていたら2009/2/1付けの東京新聞の切り抜きが出てきました。中国での臓器移植について僕が情報提供を求められた記事です。片山夏子記者が送ってくれたものです。ふと、裏に印刷された社説には天童荒太さんの直木賞受賞作「悼む人」が取り上げられていました。天童さんは1960年生まれで明大出身なので、もし早生まれなら、僕とまったく同じ学年で、同じ時代をごく親しい場所で過ごしたことになります。それに天童さんのごく近い親戚の方と、これまた偶然ですが、あの超満員の国立競技場で隣の席になり、その人との出会いがきっかけでこの「少数派日記」が誕生したのです。(2009/7/26=日記開始参照)。
いつか読もうと思って買っておいた「悼む人」を読み始めた日に「mikutyanの日記」と出会いました。本の内容は、まだ読み始めですが、「mikutyanの日記」と不思議とシンクロナイズされ、同時進行で四次元の空間に放り出された錯覚に陥るのです。こんな出会いもあんな出会いも偶然ではなく、実は必然で、それは現世にいる僕らではわからない、たとえば郁代さんのお母様がおっしゃるように「郁代が引き会わせてくれた」という言葉の意味を深く噛みしめさせていただきました。
とりとめのない話でしたが、当ブログの読者の皆様におすすめの心洗われるブログですので、どうか郁代さんにお会いに行かれてください。
本日の東京は晴天。雑司ヶ谷墓地に墓参りをして、夕刻から骨董の師匠・北九州拾得改め、埼玉・拾得さんと池袋でちびちびと今季の骨董ビジネスの展開について語り合う予定です。
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