962 星野仙一3
1003でも「星野仙一」にお付き合いください。
昭和60年、明大4年生の秋、東京中日スポーツに就職が内定。学生の分際だが小さなスペースをいただき、「燃えるレフトスタンド」というコラムを書く。関東地方の中日戦での感想だが、辛口。自腹で観戦する真剣なファンだからこそ、ちょうちん原稿は書かない。「あのプレーは銭払って見に来るファンに失礼だろ」と生意気に容赦なく書く。それを東中の高田実彦部長が気に入ってくださった。
昭和61年、まだ卒業前だが、ヤクルトの担当が決まり、ユマキャンプ前の神宮球場の室内練習場。当時、NHKと日刊スポーツの解説者だった星野さんと偶然会う。「東中で働かせていただくことになりました」と僕が挨拶に行くと「おう聞いとるでえ。これからは安藤、なんて呼び捨てにできんな、安藤さん、って呼ばなあかんな」。
めっそうもございません、呼び捨て安藤の方が嬉しいっスと心の中でしか言えませんでした。
その年の7月、父親が逝去する。まだろくな原稿も書けず、たいした記事も読んでもらうことが出来ずに残念でしたが、mikutyanの日記を読むにつけ、父親も「少数派日記」の読者であることを感じます。
東京で報を受け、新幹線で安城の実家に戻ると、僕が着くよりも早く、父親の棺の横に、星野さんから手向けの白い百合の花が届けられていました。
翌、昭和62年から星野さん第一期中日監督に就任。星野さん39歳、僕27歳。
ドラフトで、ノーマークの立浪和義(PL学園)の1位指名や落合博満の電撃トレードなどで、中日スポーツは売れに売れ、星野バブル。割りを食ったのは、落合と引き換えにロッテへトレードされた牛島和彦投手ら4選手。みんな星野さんと野球がやりたかった。
昭和63年、ナゴヤ球場でリーグ優勝。相手はヤクルト、僕の担当チーム。「ヤクルトの原稿は一行もいらんから、お前は雑観(記事)を集めろ」と東京の佐藤デスクからの指示。「チェ」と舌打ちしながら、ど〜でもいい話を集める。
何処から来た誰が誰のファンでどんだけ嬉しいか〜?そんなの読者が読んでオモロイのか???
僕は最後の打者、秦真司がどんな気分で打席に立ったのか聞きたかった。
腐りながら、記者席に引き上げると後輩でロッテ担当の片山哲郎が応援に来ていて「安藤さん、あの人、悲惨ですよ、指が無いんです」という。
医務室付近は興奮した怪我人だらけで、壁や床のあちこちに血の跡が・・・。
廊下でうずくまる、若い男性に声をかけ、手を見せてもらうと、本当に、右手の小指がもげていた。
(つづく)