少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1693 浄土からの声が聞こえる6

激しい息切れ、冬なのに額から流れる汗、ドクンドクンという心臓の鼓動が拓馬の全身に響き渡る。子供時代も含めると、60年以上も海で生活し、海上で生死を彷徨う事態に遭遇したのは一度や二度ではなかった。
海の男として、海で命を失うことは、ある意味、常に覚悟して漁に出た。亡き父親も仲間たちも、みなそうしていた。そして、実際に帰ることのなかった仲間や親族の悲惨も目の当たりにしてきた。それが彼の職業の共通の宿命でもあった。
だが、そこは海ではない。誰もが生活する陸地なのだ。
そして、海上でも経験のなかった死という恐怖を拓馬は感じていた。


心の中で、ICUに置き去りにした、おふくろさんに、拓馬は何度も何度も詫びた。「かあちゃん、ごめんよ・・・ かあちゃん、ごめんよ・・・」
自分と、妻の美和子を避難させることしか、その時点ではできなかった。いや、それすら万全ではなく、何度も何度も「もうダメかも知れない」と諦めた。
ただ、美知子のすがるような眼差し、そしてひとり娘の佳子のことを想うと、拓馬は、もう動かぬ足を、もう一歩だけ、もう一歩だけと、高台へ、引きずった。


無我夢中の数十分、そして地獄が訪れる。
拓馬と美和子は避難した高台から見た。
我が家を、そして我が故郷を、車を、そして生きている人々までもを、津波が飲み込んだ。
無数の悲鳴と叫び声が飛び交い、その隙間にすすり泣く女性の声が、震える老人たち、しゃくる少女、子を抱きしめる母親たち、無力さに崩れる頑強な男たち・・・がいた。
かあちゃん ごめん、かちゃん 本当にごめんよ」
拓馬は嗚咽し、美知子は拓馬の腕にしがみついて泣いた。
意識不明状態の母が助からないだろうことを、この時点で覚悟した。


とにかく避難所へ。一刻も早く避難所へと、拓馬は美知子を連れ急いだ。
避難所も無数の人々で混雑している。
本来なら、拓馬は率先して、怪我人を助け、混乱から人々を誘導するリーダー的存在だった。しかし、半身不随の美知子を置き去りにはできない。これから先に起こる事態を予測して、拓馬は、避難所の、なるべくトイレに近い場所に腰を下ろし、居場所を確保した。
半身不随の美知子はひとりでトイレに行くことが出来ない。美知子が脳梗塞で半身不随になったため、自宅のトイレは和式から洋式に、美知子が使えるようにとリフォームした。しかし、この田舎の古い公民館には洋式トイレなどない。ただ、この時点ではそこまで考えは及ばなかった。
おそらく、三日、いや下手すれば最悪一週間はここを動けないかも知れない。拓馬は最大限の時間的可能性を予測したが、拓馬の想定は大幅に覆され、およそ、一か月半、拓馬と美知子は、極寒の中、その狭い公民館の中の段ボール生活者となってしまった。


地獄から生還した先には、また新たな地獄が待っていた。
地震津波の地獄が一瞬ならば、ここから先の地獄は、一分一秒の痛みが、いまこの瞬間にも続いている、永遠に出口の見えない無間地獄・・・と言えるのではないだろうか・・?
書いていて辛くなる。息も苦しくなるが、浄土の老婆が書け・・・と言うのでつづきを書きます。