少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1696 浄土からの声が聞こえる9

極楽浄土・・・まさに、この世における浄土・・・それが岩手県宮古市東部、臼杵(うすき)半島東端に位置する、この世の極楽の地。
浄土ヶ浜命名の由来は、今からわずか、332年前の天和元年(てんわ、もしくは、てんなと読む。江戸前期、霊元天皇朝の年号。1681/09/29〜1684/02/21)に宮古山常安寺の七代目住職・霊鏡竜湖がこの地を訪れ、修行の中で見た、極楽浄土に酷似していたことから、そう名付けられた・・・とされている。


ICUで生死の狭間を彷徨う老婆は、地震発生直前まで、そこが三途の川だと気付くことなく、この川を渡ろうか、渡るまいか迷い、佇んでいた。
三途の川に橋があるとは聞いたことがない。しかし、老婆の前には、朱色の橋がかかっていた。老婆は、その橋の途中まで来ていたが、下を流れる川を見て、やはり戻ろうか・・・と迷っていた。


天和元年への改元は、辛酉(しんゆう)革命によるものだとされている。辛酉革命とは中国古代のの讖緯説(陰陽五行説・・・すなわち、日食、月食地震津波などの天変地異や、緯書=吉凶禍福を占う予言書などに基づいた予言予知)に基づき、辛酉の年(つまり酉年)には革命が起こるからとされている。


時のない世界と、時が流れる世界、その狭間・・・それが三途の川の橋上。老婆はまだ、緩やかに、そしてどこかもの悲しく流れるその川を、橋の上から眺めている。
浄土で生まれ、浄土に育ち・・・そして今まさに、浄土へ還る、輪廻の淵に、なんだろう・・・大切な何か、大切な大きなものを残してきてしまったような、そんな気がしてならない・・・。だが、それがなんだったのか、老婆には思い出せない・・・だけど、渡らなくてはならない・・・そんな気がする・・・。


橋の先、川の向こう側で、老婆においでおいでする人の姿は見当たらない。死装束を纏っているわけでも、死化粧を施しているわけでもない。普段と変わらぬ姿の自分がいる。
そして老婆は時代を遡る・・・。
生まれ故郷の・・・浄土ヶ浜・・・、凪うつ浜辺に立つ少女時代の老婆が見える。宮古の常安寺から霊鏡竜湖という偉いお坊さんがみえたのだと村人たちが浜に出た。
戦国徳川時代において、まだまだ小さな合戦は続く。「世の中が、常に平安であるように・・・という願いを込めた寺の、偉いお坊さんじゃ・・・南無・・・」と祖父がそう言って手を合わせたことを老婆は思い出した。


極楽浄土・・・阿弥陀仏の居場所である浄土は、西方十万億土を経た遠方にある・・・と言われ、苦患(くげん)のない安楽な世界と言われ、念仏を唱える行者は、死後、ここに戻り、また生まれる・・・。
老婆は幼き頃より、そんな話をじいちゃんや両親から聞かされ、そんな話を自身の子供たちや孫たちに語り継いだことを思い出した。それは、この土地に住む、誰もが当たり前のように、子孫に語り継いだ。


老婆の懐古は止まない・・・。霊鏡竜湖住職だけではなく、「奥の細道」の紀行俳人松尾芭蕉(1644-1694)、浮世絵草子・井原西鶴(1642-1693)、浄瑠璃で歌舞伎作者の近松門左衛門(1653-1724)らも、かの地を訪れていた。歴史的な証拠こそ残っていないが、老婆が生きた少女時代、そんな話を伝え聞いたことがある。彼らの生きた時代から推測すれば、その話も現実味を帯びてくる。

橋の上から川を眺める老婆。渡ろうか戻ろうか・・・、迷っている最中に、手足が千切れ、ばらばらになってしまった自身の肢体が、上流から流れてくるのを目視した・・・。清らかな川は、老婆の鮮血で血色に染まり、次から次へと見知らぬ人々の大量の死体が流れてくる。老婆は必死に川に向かって叫んだ・・・。しかし、誰からも返答がない・・・。
若い死体、女の死体、子供の死体、赤ん坊の死体・・・、もう自身の死体は遥か下流に流され、気がついたとき、老婆は橋を渡り切っていた。


この世の時刻、2011年3月11日、午後2時46分・・・。


(つづく)