1697 浄土からの声が聞こえる10
それにしても、ほんとうにそんな事実があるのだろうか・・・?
老婆からの声が、事実と交錯する。
震災から地獄の日々が、じわじわと真綿で被災者の首を締め、食糧、支援物資、義捐金は遅々としてとどかない。復興という言葉が出るのは、まだまだずっとあとのこと。多くの人々が生死の狭間を彷徨い、行方不明者の捜索に焦りと疲労が募る。生存可能時間の命の72時間は容赦なく、一秒も遅れることなく過ぎて行く。
東京の佳子は、中学生と高校生の子供と夫を東京に残し、交通機関を乗り継いで宮古までは辿り着いた。なんとか72時間には間に合ったが、タイムリミットは迫っていた。
二日半前のあの時刻、携帯での父・拓馬との会話。
「いま、逃げとるっちゃ・・・」という、たった一回の電話が最後、それ以来、連絡がとれていない。せめて、どこへ向かって逃げているのかだけでも、聞いておけばよかった、佳子は幾度も後悔した。
地震と津波が発生した3月11日は金曜日。テレビでの映像では、まだ被災の状況が正確に伝わってこない。被災地の断片的な映像が入るが、映像のほとんどは福島第一原発の水素爆発に集中していた。
佳子は、NHKと民法をチャンネルサーフィンしたが、情報は入ってこない。佳子の夫もインターネットで情報を探したが、正確な情報はどこにもなかった。明日、土曜日は子供たちの部活もあり、早起きして弁当の用意も頼まれている。
深夜11時、NHKのニュースは「地震と津波による死者は200人を越える見込み」と、まだ、その程度の情報だった。
「とにかく、お父さんからの連絡を待とう。避難しているという連絡がついたんだから、きっと大丈夫だよ」と夫は佳子をなぐさめた。
「そうね、漁師やってたから体力もあるし、きっと無事よね。でもおばあちゃんとおかあさんが心配。おばあちゃんは病院の中にいるから、きっと大丈夫だと思うけど、おかあさんは身体が不自由でしょ。おとうさんが助けてくれてると思うんだけど・・・」
佳子はベッドにもぐり、目を閉じたが、激しい動悸と胸騒ぎで眠れぬ夜を過ごした。
午前5時、腫れた瞼で目覚める。目覚ましの必要はなかった。
すぐに居間のテレビを点けた。犠牲者の数は昨夜の200人から400人に増えていた。そして激しい胸騒ぎ。
福島、石巻、釜石あたりの映像が入るが、その時点ではまだ、後に続々と放映された津波や地震の映像は流されていなかった。
佳子は子供たちの弁当を上の空でつくった。
そして、子供のころ、地元の小学校の運動会で、かあちゃんがつくってくれたお結びと、海産物でできたおかずのお弁当を思い出していた。
しかし、それは佳子が、毎日の食卓で食べるおかずと同じもの。
お友達が持ってくる、赤いウインナーや、鳥のから揚げ、黄色い玉子焼きにケチャップがかかり、その横に、マヨネーズであえたスパゲッチーが可愛く盛られていたハイカラ弁当が眩しすぎた。プラスチックの可愛い箱に詰められた華奢な弁当は、赤のチェックの布でくるまれている・・・。デザートのリンゴはうさぎのようにカットされていた。
新聞紙でくるまれた佳子のお弁当は、そんな友達の輪には入れず、校舎の陰で、ひとり隠れて食べたことを思い出した。
しばらく、佳子は、そんなお弁当しかつくってくれない母親を恨んで、口をきかなかった時期もあった。だが、その不満も口には出さなかった。
そんな思いもあったからだろう、子供たちには、自分と同じ思いをさせたくない・・・とばかりに、腕に選りをかけた。
そんな佳子、子供たちの弁当をつくりながら、ふと感じた。
お弁当のハイカラ度と、愛情は、決して正比例するものじゃない・・・ってことを・・・。
よく思い出してみた。たしかに母ちゃんは海の女。ウインナーやから揚げなどのハイカラな料理は得意じゃなかった。しかし、佳子の運動会や遠足の前日は、「美味いホタテとってきてやっからな・・・」と仕事とは別に、愛しい娘のために、海に潜っていた。
そんなことを、思い出していたら、子供たちの弁当に、佳子の涙が垂れ落ちた。
(つづく)
民間の旅客パイロットバンド「TOLIP」の復興支援ソング「空へ」