少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1824 夢をひとつだけ〜5月の別れ

「五月雨の 月見れぬ月 隙間から」(平成芭蕉


安藤総理注=五月と言えば「五月晴れ」=爽やかなイメージですが、旧暦では6〜7月に当たり、実は雨季の真っ最中。そのため、月の見れない夜が多いということから「月不見月」(つきみずつき)とも呼ばれます。この句は、そんなわずかな隙間からでも月が見えますように、と詠った平成芭蕉の希望を願う心境がよく現われています。これには前句があります。
「五月晴れ 私のこころ 鬱模様」(平成芭蕉
気のせいでしょうか、月替わりを境に、周囲の雰囲気が暗転する気配、その序章が今朝から・・・。
今まで、車椅子の安藤総理の元へ、看護兵が朝昼晩と三食の食事を部屋まで上げ下げしてくれたのですが、本日の朝食は「食堂にありますから」と、これまで優しかった看護兵がそっけなく。仕方なく、車椅子で取に行き、自分で下げに行く。たまたまなのか、軍の方針なのか、昼と夜の対応でわかるでしょう。


5月=グレゴリオ暦で年の第5の月に当たり、31日ある。 日本では、旧暦5月を皐月(さつき)と呼び、現在では新暦5月の別名としても用いる。「さつき」は、この月は田植をする月であることから「早苗月(さなへつき)」と言っていたのが短くなったものである。また、「サ」という言葉自体に田植の意味があるので、「さつき」だけで「田植の月」になるとする説もある。日本書紀などでは「五月」と書いて「さつき」と読ませており、皐月と書くようになったのは後のことである。また「皐月」は花の名前となっている。「菖蒲月(あやめづき)」の別名もある。

なお、旧暦の五月は新暦では6月から7月に当たり、梅雨の季節である。五月雨(さみだれ)とは梅雨の別名であるし、五月晴れ(さつきばれ)とは本来は梅雨の晴れ間のことである。

英語名などのMayはローマ神話で豊穣を司る女神マイア (Maia) の名に因むといわれている。12か月で唯一英語名に略称が存在しない(英語名の略称は3文字で表すため、もともと3文字の5月は略称が無い)。


別称=いななえづき(稲苗月)、いろいろづき(五色月)、うげつ(雨月)、けんごげつ(建午月)、つきみずづき(月不見月)、さつき(皐月)、さなえづき(早苗月)、さみだれづき(五月雨月)、しゃげつ(写月)、たちばなづき(橘月)、ちゅうか(仲夏)、ばいげつ(梅月)、よくらんげつ(浴蘭月)


本日05/01 松風庵主の運勢、安藤総理流アレンジで
東京新聞中日新聞 本日の運勢より


運勢(1日・赤口


「人と交わるに和気を持て。通常は喜びの心で万事すごせば思わざる吉運。押されること再三すれば習性となる。善行に押されて善報あり。
木陰に臥する者は枝を折らない。恩恵を受けし方に反抗せず。愚者にも一能あり、智者にも一失あり、努むるものは勝利者なり。五月雨と炎天の頃は吉事を避けて大願成就。
心が情に流されると錆がついて自在を失う。柴の戸に匂う花あり、ただ眺めてまた忘れるべし。直ぐに泣く人間は案外に気が強い、情に厚く意に強し。
落馬したりといった様な象、有頂天になると思わぬ災害あり。春は花を見て生滅を知り、秋は風音を聞いて無常を感ず。人に千日の好なく、花に百日の紅なし、長く調子に乗らぬように。
思いの極致に到れば思いは無となる、心は開放される。
人と交わるに和気を持て。通常は喜びの心で万事すごせば思わざる吉運」


(松風庵主)


安藤総理によるさらなる解説。


・木陰に臥する者は枝を折らない、恩恵を受けし方に反抗せず。
臥(ふ)せる、と読む。「病院に世話になっているんだから、文句を言うな」と言う意。たまたまだが、ここへきて、初めて、2日連続で髭を剃らなかったら、今来た看護兵に「髭を剃れ」と言われました。まさか、そこを突かれるとは。いやはや奇襲戦法ですな。

・柴の戸に匂う花あり、ただ眺めてまた忘れるべし。
難解な句ですな。紫とは高貴な意。戸は「ふすま」とも取れる。総理流解釈では、「そっと襖(ふすま)を開けると、そこには高貴な香りが漂う上品な美女が。高嶺の花に見とれて、嗚呼と、ため息でもついて忘れなさい。おぬしには似合わぬ不釣り合いな存在だと、天の声」という感じか・・・。
ちなみに、安藤総理が建てた2軒の一軒家はすべての窓に、カーテンを付けず、「ふすま」にしました。ふすまは日本古来の「呼吸する壁」です。内気と外気の温度や湿気を、障子紙となる「和紙」が、人間の皮膚と同じ働きをしてくれています。安藤邸は壁紙とか新建材を一切使わず、壁と天井は漆喰と木のみ。床はトイレに至るまで竹材。風呂は素焼きタイル。千歳船橋の家の玄関は田舎農家風の土間にしました。


障子=語源は中国伝来であるが、「ふすま」は唐にも韓にも無く、日本人の命名である。「ふすま障子」が考案された初めは、御所の寝殿の中の寝所の間仕切りとして使用され始めた。寝所は「衾所(ふすまどころ)」といわれた。「衾(ふすま)」は元来「ふとん、寝具」の意である。このため、「衾所の衾(ふすま)障子」と言われた。さらには、ふすま障子の周囲を軟錦(ぜんきん)と称した幅広い縁を貼った形が、衾の形に相似していたところから衾障子と言われた、などの説がある。「衾(きん)」をふすまと訓ませるのは、「臥す間(ふすま)」から来ていると想像される。


・直ぐに泣く人間は案外に気が強い、情に厚く意に強し。
「顔で笑って 心で泣いて いるんだ兄さんは」嗚呼、フーテンの寅さん、いいよなあ・・・。憧れです。だからキャンピングカー買って、寅さんのように生きたいと思います。
東京中日スポーツの記者時代のロッテの春季キャンプ、鹿児島天文館のとあるスナックでのこと。
「オレ、寅さんだ〜い好き。寅さんの映画観ると、本当に泣けてきちゃうんだよな〜」とホステスさんに、確かにお話ししました。
すると翌日朝、数人の他社の記者連中がニヤニヤしながら私に寄ってきてこう言った。
「聞いたよ安ちゃん。ゆうべ、俺は寅さんだ〜〜〜って、オンナの膝で号泣したんだってェ・・・(みんなで大爆笑)」
遠足のバスの中の伝言ゲームとて、そこまでなるまい。新聞記者の実態を垣間見た日。


・思いの極致に到れば思いは無となる、心は開放される。
つまり悟りの境地。無限とは無限であり、無限を究めればすなわち原点というゼロ(無)の地点に戻るのである。人生とはすなわちメビウスの帯。終着点のないゴールを目指すようなもの。辿り着いたところは、いつも土砂降り、そんなことの繰り返しだから、また進める。安息の地に辿り着けば油断して、足元をすくわれる。同じ場所に長くいては死んでしまう人間がいる。例えばマグロとか寅さんとか、安藤総理とか・・・。


・人と交わるに和気を持て、通常は喜びの心で万事すごせば思わざる吉運。
常にそうでありたい。いがみ合って生きていて、楽しいことは皆無。医療従事に生きるものは、すべて「奉仕」の精神を持つべし。本当に胸を張れる者は何人いるか?目の当たりにしてそう思う。「医者が癌になって、患者の気持ちがよくわかった」系の著作が多数出版されている。医師も看護師も研修の段階でそれくらいの感情知識は修得しておいた方がヨロシ。


陽水さんで「五月の別れ」


月と鏡はお似合いだから それぞれに憧れ 夜空をながめ・・・
鏡=海=写月


夢をひとつだけ あなたに叶えてくれる
夢をひとつだけ あなたに残してくてる