少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1855 浄土からの声が聞こえる35

めまいでしゃがみ込む佳子に気付いた看護婦が走りよった。
「大丈夫ですか?」
「ああ、ごめんなさい。ちょっとめまいが」
「少し、休みましょうか?」
「いえ、大丈夫です・・・」
前を歩く、拓馬と医師も振り返り、心配そうに佳子を見つめた。


旧病棟の待ち合いと廊下には、必要最低限の灯りしか灯されていない。震災10カ月後。まだ物資も電力も満足とは言えない。災害時、非常時、残念なことではあるが、弱者から切り捨てられていく。是か非か、良し悪しか、正義か悪魔か、そんな論議は机上の第三者の戯言。現実は生か死か、二者選択を迫られたとき、助かる可能性を優先し、低い順に見捨てられる。これが極限状態の生物の活路という事実なのだ。


せっかく助かった命。助けられた命。だが、その宿命に逆らい、自ら命を絶った多くの人々がいる。拓馬も医師も看護師も事務員も、そんな隣人に接したのはひとりふたりではない。友人が、知人同僚が、身内が・・・それぞれがそれぞれの事情を背負いながら、自らを屍へと葬っていく。残された者が癒されるすべはない。


「なんで、なんで・・・」泣き叫ぶ残された者の声。「なんで?」自死した者にもわからない、なんでこうなってしまったのか。この世とあの世の区別が曖昧になった時、人は別の次元へと、肉体をこの世に置き去りにして向かうというのだろうか?自死する者は地獄に堕ちると言われ、自死した者はこれ以下の地獄はないと言う。まさに「生き地獄」。「絶望」が生むのは「希望」ではなく「さらなる絶望」。マスコミは「闇の中の光」ばかりを取り上げたがるが、実際に美談と呼べるものは数少ない。東北人の我慢強さを利用して行政は東北という震災弱者を切り捨てる意向を、震災復興予算の垂れ流しという、実に解りやすいメッセージで全世界に公開している。これで気が付かなければニュースなど読む資質はない。


震災バブル、復興予算で潤う東北以外の地方財政は、震災で命を失った人々、遺族の悲しみ、家屋財産を失った人々、家族同然の家畜やペット、職業、想い出、友人、知人、まだ見ぬ腹の中の子、未来将来、生きたまま泥に埋められた人々、海底にさらわれた人々、救助活動の中で息絶えた人々、自死を決意した人々、佳子のように家族の安否に怯えながら東京で暮らす多くの人々、その人々の悲しみや希望が詰まった一円一銭の塊であることを人間として深く刻まなければならない。


薄暗くほこりっぽい殺風景なくすんだ廊下には、開けたとたん、別世界へと続くような扉がいくつもある。中からは、人のうめきなのか、獣のそれなのか、父との再会の興奮から冷静を取り戻した佳子の足どりは、とつぜん、鉛の鎖で繋がれたように歩が進まなくなった。もうひとりの自分が「行くな」と足をつかみ、もうひとりの自分が「こっちよ、早く」と手をひっぱる。その時、佳子ははっきりと見た。佳子の右手をひっぱるのは、もうひとりの佳子ではなく、それは母の美和子だった。だが、美和子は、もう、美和子ではなかった。佳子は扉の向こうにいる、母に、再会を信じ、待ちわびていた最愛の母に、得も知れぬ恐怖を抱いていた。


(つづく)