少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1919 1970年のこんにちは

EXPO70 万国博覧会だってさ・・・
安藤総理、11歳のご幼少のころ・・・。
人間ってやつは、どうやら裕福な時代より、不遇な貧乏時代の印象の方が、強く鮮明に記憶されているみたいで、総理の万博の記憶はあまりありません。
11歳と言えば、立派な小学高学年。そろそろ生えてくる猛者もいる学年です。
安藤総理の万博はアルバムの中でだけ蘇ります。


確か2度、もしくは3度、新しいもの好きの親父と家族に連れられて、たぶん日帰りだったと思いますが行きました。


このころ、学研の「科学」と「学習」という雑誌が流行していて、みんなどっちか、あるいは両方を買うのですが、このあたりから「理工系」と「文科系」に分かれるようです。安藤総理は「学習」を買いました。
親父は「理工学部」ですからメカ大好き人間で、万博万博と浮かれていたみたいですが、安藤総理は、さほど興味がなく、親父の運転で安城から大阪まで名神高速で行くのですが、途中、四日市光化学スモッグとオヤジのタバコで、いつも気持ち悪くなっていたのを思い出します。


20世紀少年・・・万博がからんだ映画でした。唐沢寿明主演だから、けっこう期待してしまいましたが、劇場で観てがっかりでした。DVDで十分。二度見する必要もありません。総理の映画ランキングでは圏外です。ご愁傷様。白髪のおじいさんは豊悦です。


万博の想い出は、ほとんどありません。どのパビリオンで何を観たか、ほとんど覚えていません。写真とスタンプだけが行ったことを証拠として保存されていますが、グッズはペナントの一枚も残っていません。つまり買わなかったのしょう。
コンパニオンの姉さんの腰のあたりばかり注目していたような気がします。
あの綺麗な姉さんたちも、いまやご立派なバアさんに・・・ああ、時の流れを恨むじゃないぞ・・・オレもお前もあの星見つめて、なに想う〜〜てね。


最初の話に戻りますと、万博に複数回行ける、比較的裕福時代の記憶は曖昧です。
安藤総理の平和ボケ時代のはじまりで、お菓子を喰い出し、肉体も太りはじめました。そんな時代に比べると、東京の柳沢団地のバブバブ時代は生きることが大変でした。腹を空かして、粉ミルクを求め、団地の入り口まで親父の給料袋を迎えにいった記憶の方が鮮明です。あの時は、まだ赤ん坊で、世の中を客観的に見る術を知らず、自分本位で腹を空かしてはバブバブ言って、ひとさまに、迷惑ばかりかけしていました。まだ自分の尻ですら、満足に自身で拭うことさえもできない昭和2ケタ世代、笑っちゃいますよね。
ああ、この唄ですか、ええ、知ってますよ。聞くのは43年ぶりですかな。
安城北部小学校で、学徒全員が校庭に動員され、大本営の指令で唄わされましたが、さすがにこの単純すぎるメロディーは、いくら小学生相手とはいえアカン警察でしょう。真剣に歌唱指導する先生がアホ丸出しに見えて仕方ありませんでした。無理もありません、こちとら小2から、ホウキでタイガースとテンプターズコピーバンドやってる手前「こんにちは、こんにちは〜」なんてちり紙交換みたいな唄にはついていけず、そのころ台頭してきたキラーズの唄をロイ・ジェームス不二家歌謡ベスト10から録音して、体育館裏で練習してましたからね。
「わ〜すれられないわ〜」なんてね。中日劇場まで見に行っちゃいましたもんね。あとグランスパー長島にも行ったなピンキラ見に。
あれから、小学生の間で「夜明けのコーヒー」が流行り、社会問題になって「コーヒーは大人になってから」と文部省が言うもんだから、結局、ライオネス・コーヒーキャンディーとか、明治のコーヒービートとか、ロッテのコーヒーガム、あるいは不二家のコーヒーキャラメルの甘ったるい波が押し寄せて、コーヒーは甘いものという印象が定着し、あの吉田拓郎までが「きみは二杯目だよね、コーヒーカップに、角砂糖ひとつだったね」と「襟裳岬」でコーヒーに砂糖を入れる軟派な唄まで発表してファンからヒンシュクを買った時代です。



「貧とか憂いは自己を作る土台と悟って人格向上」
本日の東京新聞中日新聞、松風庵主の運勢より・・・