少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2213 悲しみのDear Song/Danny石尾さんに捧ぐ2


約3年間、代々木上原のBar・imagenで、欠かすことなく毎月第三金曜日、ダニー石尾さんのライブを企画しました。
小生は当時、NYで医療クリニックの仕事とクロムハーツの買い付けのため、毎月渡米。大三金曜日には、必ず日本に帰国するスケジュールを組み、下北沢と代々木上原、笹塚と横浜の骨董店を経営するなど、安藤総理もハードな日々を送っていました。


imagenは、どんなに詰めても20人は入れない店で、ギャラはほとんど期待できません。経費倒れが前提のライブでしたが、それでもダニーさんと濱田金吾さんは3年間、小生のわがままにお付き合いしてくださいました。
「安藤、ギャラなんてどうでもいいんだよ。聴いてくれる人が一人でもいてくれれば、俺は行くよ。それは約束する。あと、ギャラがどんなに少なくても、お前もちゃんと取れ。で、なければ俺はやらない」
客の入りが少ない時は
「俺はいいから、金吾の分だけはちゃんとやってくれ」
とも言っていた。
僕は、ミュージックチャージの中から、約束通り1000円を抜き、残りをダニーさんに渡し、満員御礼の時は5000円くらい抜かせていただいた。


開演前、3人で、近くのシナソバ屋でビールを飲みながら腹こしらえして曲を決めたりした。元気な姿が懐かしい。
たまたま偶然だが、昨日、不動産屋さんが、新物件を見せたいから・・・と上原近辺の物件を案内してくれた。その時、まさに車でimagenとシナソバ屋の前を通り、ダニーさんどうしてるかなあ・・・と不意に思い出した。


スポニチの記事より・・・


音楽バンド「フォー・セインツ」のメンバーで、サッカーJ1の鹿島アントラーズでスタジアムDJを務めていたダニー石尾(本名=石尾豊)さんが15日午後1時27分、肝硬変と肝細胞がんのため死去した。66歳。


ダニーさんが1993年のカシマスタジアム開場以来スタジアムDJを務めていた鹿島が17日、発表したもので、鹿島は
「クラブとして謹んで哀悼の意をささげるとともに、ダニーさんの20余年の多大なる貢献に深く感謝の意を表します」と哀悼コメントを発表。
葬儀は近親者のみで執り行われるが、クラブは後日、カシマサッカースタジアムで「お別れの会」を執り行う予定(詳細は後日発表)で、19日のJ1第8節・神戸戦では追悼セレモニーを実施。
カシマサッカースタジアムのメインスタンド2階コンコースに献花台を設置し、キックオフ前に黙とう。鹿島の選手および関係者が喪章を着用する。


また、クラブは遺族の「もう一度、カシマスタジアムに熱いシャウトを響かせる――。この強い気持ちと、サポーターの皆様やチーム関係者の皆様からの熱い励ましを糧に、時には家族や医師も驚くほどの生命力をもって病と闘ってまいりました。
2014年シーズン開幕後は、毎試合のように病室で応援し、チームの好調をとても喜び、その歓喜の中へ戻ることを強く思っていただけに、その願いが叶かなえられず、残念でなりません。
1993年のJリーグ開幕より21年にわたりダニー石尾を慕い支えてくださった皆様に、故人になりかわりまして、心より感謝申し上げるとともに、チームの躍進とサポーターの皆さんの活躍を祈っております」とするメッセージも発表している。

 
ダニーさんは1960年代後半に一世を風靡(び)したフォークソンググループの草分け的存在だった「フォー・セインツ」のメンバーで、ボーカル、バンジョー、ギターを担当。1968年のデビューシングル「小さな日記」が20万枚の大ヒットとなった。

 
鹿島ではJリーグ創設元年の1993年からカシマスタジアムのスタジアムDJを担当。肝臓がんと診断され、闘病のためスタジアムDJの仕事を休養することになったと2月27日にクラブが発表した際には、クラブを通じて「必ずカムバックするので待っていてください」とコメントするなど復帰に向けた強い意欲を持っていたが、かなわなかった。
[ 2014年4月17日 14:21 ]




つづく