少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2217 職責放棄に全米絶賛


「親の死に目にも会えない」という職業がある。
つまり、代役が効かない稼業がそれにあたる。


二者選択となれば辛い道だが、日本の美徳として、「仕事」を優先する人が多い。それは個人的価値観の問題で、生死にかかわる場面での職場放棄に、非難を唱える人は少ないだろう。


逆に生誕の場合はどうだろうか?
1987年のメジャーリーグオークランド・アスレチックス。ひとりの新人選手の話。
その日、選手の奥さんは長男の出産を控えていました。
選手の名前はマーク・マグワイア(Mark McGWIRE=背番号25 一塁手1984年6月ドラフト・アスレティックス1位『全米10番目』。1963年10月1日生 右投右打 198センチ 101キロ。カリフォルニア州出身)


この年は彼にとって、今後のメジャー生活を左右するルーキーイヤー。
その大切な年の最終戦に、彼は試合を欠場して、出産に立ち会うため、奥さんの元へと向かいました。


長嶋茂雄の名言のひとつに「全力プレーの意味は観客のため。自分たちは日常だけど、お客さんの中には、生でプロ野球を観るのは、一生に一度の人だっている。そういう人たちのために全力でプレーすべき」というのがある。
その伝でいけば、たかだか(個人的にはそう思う)長男の出産に立ち会うために、仕事を休んで行くとは、プロとしての認識に欠ける・・・という思考に至る。マグワイアを観るために、スタンドに足を運んだファンだっているはずだからだ。


ところが、全米の野球ファンは、このマグワイアの行為に「家族愛」のシンボルとして盛大な拍手を送ったのです。
実はこの最終戦マグワイアが、あと一本、ホームランを放つと、ルーキーとして前人未到の50本塁打という、とてつもないレコード(記録)がかかっていたのです。
まあ、優勝争い、順位争いがかかっていたとしたなら、戦線離脱は敵前逃亡として非難轟々、軍法会議もんでしょうが、順位も確定したいわば消化試合。あくまでも個人記録の更新ですが、それにしても凄すぎる記録。これを放棄して出産に向かうという「優先順位」にアメリカ国民が賛同したという話です。


マグワイアは言いました。
「もちろんチーム成績がかかっていればできないこと。ホームランはまた打てばいいけど、出産は一生に一度きりだからね。(試合に出るか出ないか)迷う必要もなかったさ。この状況で出産に立ち会わなければ、むしろ、そちらを後悔しただろう」


今回の女性教師の「息子の入学式で職場放棄」とは、わけが違うことは、おわかりいただけたと思います。こちらはカッコいいの一言ですよね。
この出来事から、安藤総理もマグワイア選手の大ファンになりました。
マグワイアとコンビのホセ・カンセコ選手も大ファンで、日米野球で日本に来た際には取材させていただきましたが、マグワイア選手とは会ったことがありません。


引退後に薬物使用を暴露され、イメージダウンしてしまいましたが、マグワイア選手のプロフィールを以下、添付します。興味のある方は続きをお読みください。


 マーク・マグワイア


1963年、カリフォルニア州の裕福な家庭に、男5人兄弟の2番目として生まれ、その兄弟の誰もがスポーツで才能を見せていました。10歳の頃からリトルリーグで野球を始め、公式戦の初打席で初HRを放ったマグワイアは、投手としても高い才能を見せ、高校卒業時には投手としてエクスポズから8位指名を受けましたが、それを拒否して南カリフォルニア大学へ進学。
 投手として、1年時はリリーフが主で、打者としてもそれほどの成績を残したわけではなかったが、2年生になると、防御率2.78をマーク。当時のチームメイトには、後にメジャーを代表する左腕となるランディ・ジョンソンがいたものの、そのジョンソンを含めてもチーム最高の防御率を記録。それだけ投手としても評価されていましたが、自らのパワーを生かすため打者に転向。


そして大学3年時の年間32HRをマーク。大学通算で54HRという大記録も樹立、同年、全米1位指名権を持つメッツが、マグワイア獲得に動いていたが、結果的に10番目の指名権を持つアスレティックスが1位指名した。
指名後には、ロス五輪の代表にも選ばれたこともあり、オリンピックに参加。ウイル・クラークやバリー・ラーキンらという名だたる選手達の中で、全米の4番を打つが、日本に敗れて銀メダル。オリンピック後にアスレティックス傘下の1Aに加わり、プロとしてのスタート。
アスレティックス時代はホセ・カンセコと共にバッシュブラザーズを形成。1985年は1Aでフルシーズン過ごし、135試合の出場で打率.274、24HR、106打点で本塁打王打点王の二冠王を獲得している。2Aからスタートした1986年は、3割を超える打率に長打力も発揮し、3Aを経て、シーズン終盤には初のメジャー昇格も果たした。ちなみに本来はファーストを守っていたマグワイアも、チーム事情から当時はサードを守っていたのである。


開幕メジャーを手にした1987年、開幕序盤は不調に苦しんだ。しかし、ポジションを本来のファーストに戻した後は恐ろしいほどの打棒を見せた。5月には月間15HRも放ち、一躍注目を浴びることになる。ちょうどこの年限りで引退するレジー・ジャクソンもチームメイトとしており、マグワイアを手助けした。新人のHR記録はウォーリー・バーガー、フランク・ロビンソンの38HRだったが、これは8月の段階でクリアしてしまった。
終戦を残した段階でマグワイアが記録していたのは49HRであり、50号の大台に乗せることも可能だった。
しかし、ちょうどこの日は長男の出産日と重なっていたこともあり、試合を欠場して出産に立ち会う事を決めた。この年は打率.289、49HR、118打点で本塁打王と新人王をダブル受賞した。


当時はチームメイトに「40-40」クラブ入りするホゼ・カンセコがおり、マグワイアと2人でバッシュブラザースとして売り出され、アスレティックスは黄金時代を築く。1988年から3年連続リーグ優勝を果たした訳だが、チームメイトにはバッシュブラザーズの他にリッキー・ヘンダーソン、デーブ・スチュワート(安総注=日米野球の時、一緒に飲みに行きました)デニス・エカーズリーと個性的なメンバーが揃っていた。
そして、サンフランシスコ大地震があった1989年、待望の世界一に輝くことも出来た。


豪快なHRを放っていたマグワイアも、離婚も経験し(安総注=出産に立ち会ったのに、結局離婚とは皮肉なものよ)怪我もあり、精神的に追いつめられることもあった。
1991年は打率.201、22HRと大スランプに陥った。翌1992年に42HRし、きっかけを掴んだかに見えたが、1993年は左足のかかとの疲労骨折、1994年は背中の激痛に苦しみ、2年連続でシーズン9HRで終焉。


1998年の夏は多くのファンを熱くさせた。様々な苦難を乗り越えて、1995年に39HRして復活への第一歩を踏み出した。1996年には130試合の出場で、打率.312、52HR、113打点という好成績を残し、新人の年以来の本塁打王に輝いた。ケン・グリフィーのHRラッシュもあり、この当時のメジャーリーグは毎年のように、ロジャー・マリスのシーズン61HRを抜くのではという期待を持たせる選手が出ていた。もちろん、マグワイアもその候補であった。1997年はシーズン途中に、かつての恩師トニー・ラルーサが率いるカージナルスへ移籍し、2球団で合わせて58本のHRを放ったのである。


そして迎えた1998年、開幕戦で満塁HRを放ち、その後も開幕4試合連続HRも記録する最高のスタートを切った。ハイペースでHRを打ち続けるマグワイアに思わぬダークホースが台頭し、このHR争いに彩りを添えていくことになる。そのダークホースとはソーサであり、6月に月間20HRを記録し、一気にマグワイアに迫っていく。8月の段階で両者が50HR以上を記録し、その後も追いつ追われつの争いを見せる2人の動向に全米は熱狂し、マリス越えが徐々に現実のものとなっていった。
9月5日のレッズ戦で60号の大台に乗せたマグワイア。9月7日からはソーサのいるカブスと2連戦。その初戦でマリスに並ぶ61号HRを放った。ちょうど、マグワイアの父親がこの日、61歳の誕生日だったこともあり、最高のプレゼントを贈ったことになる。


そして、翌日の9月8日、第2打席でスティーブ・トラクセルの初球を叩くと低い弾道でレフトスタンドへ運んだ。ついにシーズン62号HRの新記録を作った瞬間である。低い弾道のHRというのはマリスのHRの特徴であることからも、この瞬間、マリスが乗り移っていたのかも知れない。ホームに待っていたのはマグワイアの息子マシュー君であり、かつて新人時代に出産に立ち会い試合を欠場したときに生まれた子供でもある。敵味方の両チームがマグワイアの新記録を称え、試合が一旦中断するほどの盛り上がりを見せた。

結果的にマグワイアは最後の3試合で5HRと固め打ちし、70本の大台にまで乗せ、一方のソーサは66本でシーズンを終えた。翌1999年も再びデッドヒートを繰り広げ、マグワイアは65本、ソーサは63本放っている。通算500HRも達成し、ハンク・アーロンのメジャー記録更新も夢ではないと思われていたが、右膝の痛みがマグワイアを苦しめた。

豪快なHR打者にしては寂しい引退だった。2000年はシーズンの大半を欠場しながらも32HRとパワーを見せたが、2001年も怪我に苦しんだ。パワーは見せるが、打率は.187に終わり、シーズン終了後に引退を発表。現役続行への要望も出たが、年俸並の働きを見せられないと悟ったマグワイアは、自らの決断を覆すことはなかった。メジャー生活16年間で通算583HRという記録で、バットを置くことが決まったのである。

HR1本打つまでに何打数を要するかを判断する本塁打率では、マグワイアは10.61打数という記録で、ベーブ・ルース(11.76打数)すらも上回る打棒を見せている。シーズンHR数は2001年のバリー・ボンズの73本により塗り替えられてしまうが、マグワイアがメジャー史に深く名を刻んだのは紛れもない事実である。しかし引退後、ストロイド使用疑惑に巻き込まれ、今では殿堂入りにすら黄信号が灯っている状況である。マーク・マグワイアは、史上初となるシーズン70HRを記録しました。

1998年にマグワイアサミー・ソーサとHR争いを繰り広げ、ストライキ後に低迷していた野球人気を回復させた功労者のひとりです。


獲得タイトル一覧
本塁打王:4回(1987-AL、1996-AL、1998-NL、1999-NL)
打点王:1回(1999-NL)

受賞アワード一覧
◦新人王(1987-AL)
ゴールドグラブ賞:1回(1990-AL)
シルバースラッガー賞:3回(1992-AL、1996-AL、1998-NL)