少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2323 父の死


本日で入院54日目、今シーズン通算で134試合目。
明け方、ふっと父親のことを思い出したので書こうと思います。


昭和60年06月の最終週。私は、ようやく取れた休みを利用して、東京から日帰りで、父が入院していた名古屋の中京病院へ見舞いに行きました。


ちょうど、その一年前くらいから、中日ドラゴンズの関東地区応援団長として、東京中日スポーツに観戦記を投稿。運よく、高田実彦編集局長の眼に留まり、連載させてもらう運びになりました。記事内容は、ドラゴンズの応援というよりは、腑抜けたプレーに対しての批判と不満。ゼニを払って真剣にプロ野球を観戦している者の権利として、熱狂的なファンたちの溜め息が選手に届けば・・・という思いで、書き続けました。
FAXもコンビニもない時代。試合後、すぐに原稿を書き、伝書鳩を品川駅港南口にある中日新聞の編集部に飛ばし、一本5000円の原稿料をもらう日々。そんなことから、卒業後は東京中日スポーツで拾ってもらうことが決まりました。


まだ、明治大学在学中の昭和59年12月、ラグビー明治VS早稲田戦が、本格的な初仕事で記者証をいただき、国立競技場の記者席から観戦。その年は、明早戦の数日前に、強盗を追いかけ、逮捕に協力した明大4年生が、その強盗ともみ合う最中に、刺殺された事件が起こりました。その刺殺された明大生も明早戦を楽しみにしていた学生のひとりでした。


そんなことも重なり、かつ、沸騰するラグビー人気と相反して、東中には、ラグビー担当の専門記者がおらず、学生の私が、かなりの原稿を書かせていただきました。たしか当日の一面記事も書かせていただきました。


翌、昭和60年、私は無事に卒業できたので、予定通り、東京中日スポーツの記者となり、ヤクルトスワローズの担当となりました。入社一年目の新人が、いきなりプロ野球球団の担当になることは稀ですが、当時の東中は人員的な問題もあり、即戦力として使っていただきました。


アメリカの大学を経由して、22歳で明治に入ったので、私の年齢は、すでに26歳。いわゆるオールドルーキーの域ですが、おかげで英語もしゃべれたので、外国人選手の取材には、他社よりアドバンテージがありました。


父親は、入退院を繰り返していた人なので、入院といわれても、また、いつものことか・・・くらいにしか思っていませんでした。
母親から、ある程度の病状は聞かされていましたが、今日明日、あるいは、ここ数か月でどうなるとかいう、切羽詰まった状態ではありませんでした。


私が、中京病院に父を見舞ったのは二度目で、一度目は、それより二年ほど前でした。二年間、ずっと入院していたわけではなく、出たり入ったりしていました。両方とも、特に、これと言った会話も無く、30分、長くて一時間、ただボーと椅子に腰かけていただけだったように思います。


腹水がたまり、かなりお腹が膨れていたこと。「おしっこしたいからトイレに連れてってくれ」と言われ、肩を貸して、トイレまで連れて行ったこと。
この二つのことは覚えているのですが、それが、一回目の見舞いだったのか二回目の時だったのか、あれから30年経った現在では、記憶が混同しています。


もし、二回目だとしたら、亡くなる一週間前のこと。曲がりなりにも、自分の足でトイレまで、歩いていけたことになります。
東京に戻り、電話で姉に「なんか元気なかった。危ないのかな?」と電話を入れたことは覚えています。しかし、当時、父はまだ60歳。まさか、そんなに早く、という思いの方が勝っていました。


それから一週間後。神宮球場での巨人戦が雨で延期となり、神宮の記者席で雨用の原稿を校了し、その日のデスクからOKのサインが出たのが、午後8時。なんとも言えぬ、胸騒ぎがして、このまま東京駅に向かえば、午後9時の下り最終の新幹線に間に合う時刻。迷いながら「今夜は直帰してもいいですか」と巨人担当の先輩記者に尋ねたところ、事情を知らない先輩記者は「一年生だから、早く終わっても、帰社してゲラを確認した方がいいぞ」と、まあ、私のことを思い、そう言ってくれました。


私も、別段、嫌な思いもせず、名古屋に行くという決心もなかったので「わかりました」と言い、一旦、品川の本社に帰社。深夜一時に会社のタクシーで両国の下宿先に帰宅。
その夜、部屋まで続く、長い廊下の天井の蛍光灯がずべて、点いたり消えたりと点滅していたのが、後から思えば虫の知らせというやつでした。


朝8時、母だったか姉だったか、どちらかから電話が。「危篤」だったか「死亡」だったか記憶にない。上司に電話を入れ、休暇をいただき東京駅へ。
喪服の準備は、自主的だったのか、家族の指示だったのかも定かではない。
父の死亡時刻は、明け方の4時ごろだったと、後で聞いたので、「死亡」ではなく、気を効かせて「危篤」だったと、今、思い出した。


新幹線、下り。車窓左側。ナゴヤ球場に差し掛かる、ほんの少し前に、父がいる中京病院が見える。「危篤」なら、まだ間に合うか・・・、そんな思いを秘めて、名古屋からタクシーに乗り、東京方面に20分ほど戻る。
一週間前に訪れたばかりの病院。
やはり父に肩を貸して、トイレに連れて行ったのは、この時だ。よろよろだが、まだ自力で歩けたはずだ。弱ってはいたが、そんな、一週間で亡くなるという雰囲気はまったくありませんでした。


父の部屋に行くと、ベッドは、もう次の患者さん用に整備され、なんとも言えぬ虚無感。中学の帰り道、母方の祖母を見舞いに行った時と、同じ光景。
抜け殻のベッド。新しいシーツ。予感していたとしても、そこに横たわっていたはずの人間が居ないという事実は、想像以上の衝撃。
看護婦さんが来て、「もう、ご自宅にお戻りになりました」と聞かされた。


今、自分が病院にいて、あの時の父より、遥かに具合の悪そうな患者さんが大勢いる。医学の進歩は凄いと感じる。
ただ、中には、生きている方が苦痛だと見受ける患者さんもいる。人それぞれだ。
父は腎臓を患ったが、すぐに命にかかわる状態ではありませんでした。そばで付き添っていた、母は、元看護婦で「医療ミス」を訴えていました。その可能性は低くありません。いくら「医学」が進歩しても「医療」は人為的です。そこにミスが発生するのは、前提だからです。


父が亡くなる年齢まであと5年。55歳の父は、どんな思いで、家族や世の中を見ていたのだろう。
「身体をゆっくり休めるのが、今のあなたの仕事です」と医療関係者はそういうけど、そんな御身分じゃございません。


今、この空間で出来ることは、読書、ネット、電話とメールでのビジネス、執筆、睡眠と限られていますが、苦しむ人々の吐く息で、空気が淀み、重たい。大部屋ですから集中する時間も限られ、電話もままなりません。
だが、これは仕方ない事。ただ、時間があっという間に過ぎてしまいます。


今年もあと二か月か・・・。中国、香港、NYには、どうしても行かなくてはならないけど、日程が厳しくなりました。
ブログ、更新したいけど、この空気の重さが、全身を包み込み、憂鬱攻撃と闘っています。