2539 宇宙論/無
6/2-17 FB投稿
おはようございます、東京は晴天の6月2日。
4日間のハードディ終了、左脚パンパン、しばらくは安静だな、こりゃ。
昨夜は久しぶりにNHKのモーガン・フリーマンの時空を超えて、を観ました。
これ大好きな番組です。気合いを入れて見ないと置いていかれるので、ながら見は不可。
www4.nhk.or.jp/P3452/5/
昨夜はのテーマは「無」
宇宙は132億年前のビッグバンにより誕生した。
ではその宇宙は「無」から誕生したのか、あるいは「有」から誕生したのか、物理学者の想像は二分される。
物理学者には「0」と「1」しかない、すなわち無か有かのみ、中間はない。
人間様だって60兆個(最新の発表では37兆2000億個)の細胞の集合体であると言われているが、実際に数えた人はいない。
人間は確実に存在する。細胞も確かに存在する。でも、細胞の単体は肉眼では見えない。
だとしたら、細胞のその先に、現在の科学(顕微鏡)では見えない何かが存在するのではないか?
同じく「時間」も概念であって物質ではない。
なぜならば測ることが不可能で、0と1の境界が存在しないからだ。
つまり、今、視界にあるすべてのもの、手に触れるすべてのもの、感情とか快楽という精神すら、すべてがまぼろしであるという仮説がある。
それをひっくるめてダークマターと称し、その素粒子が宇宙から降り注ぎ、人体を容易に通過する。
メイプル超合金が「ワイハイが飛んでる」と言って眼に見えないワイハイを、赤のバイセクショナルとアンドーナツが、空間でよけるネタがあるが、まさにそんなイメージである。
つまり、光とか音や風とか空気は眼に映らないけど、すべてが素粒子の集合体であるとするならば、それは科学が進歩すれば眼で見ることができるのか否か。
否であれば、やはり、人間を含め、すべてのものは「無」という仮説に近づく。
古代イタリア物理学者は瞑想し、無の境地に近づこうと試みるが、色んなことを考えて無になれないから無は存在せず、有しかないという結論に達したそうだが、それはどうか?
釈迦や宮本武蔵は無の境地に達したそうだが、あくまでも自称であり、それを科学的、物理的に証明できるものはない。
つまりイタリア人の集中力(瞑想力)の足りなさかどうかは判別できない。
仮に瞑想するのに集中力が必要な時点で無の存在は、否定されるのではないか? そもそも無の存在という表現自体に矛盾がある。
とりあえず、私は現存する「有」に手を染めた。
渋谷でバスを待つ10分間、デパ地下で好物のちご餅と生八つ橋を購入、さっそくいただく。
ちご餅は数量限定で午後まで残っているのは珍しいラッキー、ついてる。
5万円もするサプリメントは中国向け販売用のサンプルとして業者さんからいただいた。
原材料はもずく。一粒でもずく3キロ分。3キロのもずくからの有効成分を凝縮すると一粒になる。
とするならば、それをさらに凝縮した場合、限りなくゼロに近づき、やがてはゼロ、すなわち無になるのではないか、という仮説が成り立つのではないか?
仏教用語に「刹那」がある。サンスクリット語が語源、時間の最小単位。
文学では限界だが物理学者はさらに追求する。
朝から堅い話でかたじけない。
百合子グリーンのジャケットが青だとか緑だとか、見りゃ誰でもわかることを、どのチャンネルもしたり顔で解説するバカマスコミ。
安藤総理の有無論の方が有益だと思っていただければ嬉しいです。
諸行無常、南無。
本日もついてる 感謝してます。