3239 明治本PR2
1/8/19
明大校友の皆さま、FBFの皆さま、おはようございます。安藤貴樹です。本日より、数回に渡り執筆内容をアトランダムに掲載させていただきます。よろしくお願い申し上げます。(vol 2)
「戦前は一度に200人も入れる広間が二階にありまして、高田の軍隊の関係者や警察の幹部の方々もよく利用なさってくれていました。北島先生が疎開で来られた時も、部屋がいくつかございまして、先生の他に疎開された家族が住まわれていました。先生は奥様と治彦ちゃんと三人でひとつの部屋を使っておりました。この家の先にある坂を登ったところに、当家が所有している小さな畑がありまして、そこを先生にお貸ししていたんです。お儀母さんによりますと毎日楽しそうに3人で畑仕事に出かけられたそうです。ところが先生の奥様は東京から来られたハイカラさんで、家を出るときはスカートにハイヒールだったそうです。畑に着いてからモンペに履き替えては、またスカート姿で戻って来られる。お洒落な女性だったとお義母さんはそう言っておりました」
北島は、この急な斜面を肥桶を担いで登ったという。ぜひ現場を見たかったが、戦後は完全に放置され、林道も竹林となり照子自身も行ったことがないという。断念したが、ここが後述する八幡山北島農園の原点であったことは間違いない。照子が義母から伝え聞く限り、農作物はさつま芋を中心とした根菜類、葉物は白菜に長ネギ、冬が長いこの地で採れる野菜は限られている。外出できない冬季は干した大根や、保存用の芋などで凌いでいた。
12歳で東京に出た北島は昭和19年に疎開するが、その間29年、一度も帰郷していない。当時41歳になっていた。その間、20歳(明大1年)の時に徴兵され、その気になれば往き来できる高田練兵場に一年いたはずだが、その時は戻らなかったのだろうか。
終戦の音が聞こえたころ、北島は疎開先の故郷の安塚村で畑仕事に精を出していた。日本海の長い冬と短い春をやり過ごし、蝉時雨(せみしぐれ)のなか、広島に続き長崎に原爆が投下され、北島は敗戦が近いことを悟り上京を決意する。昭和20年8月6日と9日時点で広島と長崎に投下された爆弾が、それが原子力爆弾であったことを新潟の山村にいた北島はおろか、日本中の誰しもが、それが何であるかを知る由もなかった。北島は2発の原爆に対し「あれは『単なる熱の放射』という大本営の発表はデタラメで日本は負ける」という自身の疑心に決着をつけ終戦二日前の8月13日月曜日、みゆき夫人と治彦少年を安塚に残したまま村を出る。安塚から木炭バスで直江津へ。馬力の乏しい木炭バスは登り坂では乗客全員が降りて後ろからバスを押した。北島のザックには収穫した薩摩芋が詰められていた。直江津から鉄道で、妙高を経由して長野に出る。そして上野まで揺られた。