3452 早稲田受験の思い出
2/26/18
FBFのみなさま、おはようございます。
いよいよ、この明け方の東京を見ながらの投稿も、残すところ、今日と明日の2回となりました。
2013年の今日、2/25日、早稲田の酔狂伝こと、山本正則さんと、FBを通じて再開したと。今朝のFBFニュースが届きましたので、今朝は山本正則さんとの出会いから始まる私の東京です。
そうですね、まさしく40年前の今日、18歳の僕は東京にいました。親父がとってくれた両国のパールホテルです。のちにこのホテルが赤ヘル軍団広島カープの東京寄宿舎と知りました。
総武線で飯田橋に出て東西線で早稲田へ。多分、そんな経路だったと思います。都の西北まで行き、商学部、教育学部、一文二文、社学を受けるわけですよ。ラグビー部のセレクションでお眼鏡に掛かった人は、教育学部の試験で20〜30点もらえるそうで、それを目当てに東伏見まで、暮れに肉体のみを鍛えて行ったわけですが、100人を越す猛者どもが全国から集まるわけで、愛知の田舎侍としては、顔の良さで勝負するしかないと思いました。
当時の田舎侍、明治では絶対に通用しません。早稲田ならサイズ的にチャンスがあると思ったわけですよ。
戦後育ちの僕らの時代でも、受験生は、ほとんどが私服でした。僕はというと、詰襟の学ランに下駄履きでした。
すると速攻で「早稲田大学精神高揚会」の学ランの人たちに取り囲まれ「チミこそ、我が早稲田大学が必要としている逸材だ。ささ乗りたまえ」とチャリの荷台に乗せていただき、試験会場まで搬送。おまけに「稲穂」屋さん特製の「合格祈願稲荷寿し」をもたせてくれました。さらに合格祈願万歳三唱。富所さんという、リーダーの方から「チミ、ぜひ、これを読みたまえ」と渡されたのが「柔狭伝」3冊です。これがバロン吉元先生との出会いでした。
で、試験が終わり、正門から出て、大隈講堂を見上げました。
「これで、いよいよ俺も四月から、この街で世話になるのか。よろしくな、大隈講堂」とご挨拶していると、講堂前の段差に気怠く、腰掛けて、タバコふかしながら、僕においでおいでする奇妙なおじさんがいました。
僕ですか?と自分の鼻を指でさすと、おじさんは、やはり無言でおいでおいでを繰り返します。
で、行くと
「チミ、受験生?合格電報とか予約した?」
「いえ、自分で見に来ますから」
「あ、そう。ま、いいからいいから、ここに住所と電話番号書きな。チミ、絶対に合格してるから大丈夫だよ。何学部受けたの?あ、そう。じゃ、千円ね」
私は言われるままに千円を渡してしまいました。
その電報がなくとも、合格者には大学から通知が来ることをあとで知り、新手の詐欺であることに気づいたのです。
おじさんは、もそっと立ち「ついておいで」と言い、僕をなんやよう知らん、学生たちの輪に案内しました。
おじさんが輪に入ると、ざわざわしていた学生たちの私語が収まり、なんや緊張した空気が流れました。
「あ、みんな、この子、4月からうちのサークルに来るから。えっと、名前、なんだっけ?」
「あ、アンドーです」
「そうそう、アンドーくん、アンドーくん、どっかの田舎から来た子だから、みんなで面倒みるように」
そらもう、学生たちから握手攻めでした。
「あの、おじさん、これは何の宗教ですかね?」
「あ、うん、こりゃね、早稲田大学ケン玉研究会っつうのよ」
「ケン玉っすか?」
「そうケン玉」
あいや〜おれはケン玉じゃなくてラグビー部に・・・
「じゃあ、みんな、行くか〜」
「お〜〜〜!」
という掛け声で集団はゾロ歩きで、早稲田通りを高田馬場へ。庄屋という居酒屋で、なんやようしらん、追い出しコンパとやら。その中に、なんやようしらん、わけのわからん受験生の僕がいて、全メンバーの前で再びおじさんが「え〜〜みんな〜〜、この子は四月から、うちのサークルに、えっと、名前何だっけ?」という感じでやるわけです。
自分、もうすっかり、早稲田の学生ですよね。
酒池肉林。
酒だけではないですよ。色仕掛け、ハニー接待も受けました。
40年前のことですが、昨日のように覚えています。
のちにNHKのキャスターになられた釧路出身の岡◯淑江さん。大手広告会社に就職された大田区出身の◯島恵美子さん。一歳年上で山口県防府市出身の生◯陽子さん。そらまあ、それはそれは見事な美人さんですわ。化粧も決めてるし。女優さんかと。
かたや田舎の高校生。夏のセーラー服から透けて見えるブラジャーの線を見ただけで発情する青年にとって、初めて至近距離で見るオ・ト・ナのオンナ。大学生になると、毎日、こんな夢のような世界がおとずれるのかね? 太田裕美の木綿のハンカチーフじゃんか。
結局、その夜は二次会、三次会、そして四次回は東中野にあるメンバーのボロアパート四畳半に酒を持ち込んで7人プラス1人。プラス1人は僕ではなく、東中野のプラットホームで泥酔して寝ていた身長185センチくらいある見ず知らずの青年。トレンチコートにスズメの巣みたいに爆発したヘアスタイル。田舎にはいないいでたち。
おじさんが「そいつも、かわいそうだから運んでやんな」という一言で、僕と亀と呼ばれる使い走りが交互で担ぐ。
いかんせん狭い部屋。7人は体育座りしてレッドを回し飲む。トレンチコートは正体がないので玄関に放置。背が高すぎてドアが閉まらず、二つ折りにしようという提案で、僕と亀が頑張るも、こいつ身体硬すぎ。結局、ドア開けたまま、皆、酔いつぶれて、折り重なり雑魚寝。
明け方、新聞配達がその惨状をみて、集団ガス中毒と思い、警察に通報・・・というのは私の脚色ですが、それ以外は実話。
僕は淑江さんの、あの香水の匂いが忘れられず、それでも野郎臭と、野郎の海の中で深い眠りに落ち、遅い午後に目覚めると、隣に亀の顔が。スズメの巣は消えていた。
つづく
ps 午前5時の東京。ここから東中野が見えます。
40年前もこの暗さ、この寒さの中にいたんだな。
真ん中の写真はすでに学生寮と化した僕の部屋。
コメント
田中さん「すげー。 少しだけ上の私ですが当時の早稲田は合格者にすら通知を出していませんでした。¥1000払って電報屋さんの学生からの電報以外に合格を知らせてくれるものはなにもありませんでした」
裏総理「え、そうなのですか?合格通知来ないから、てっきり落選かと思いました。商学部はマークシートなので(運が良ければ)合格圏内と言われていたのですが」
田中さん「安藤 貴樹 さん 田舎者あるあるですよ!!! 合格してたんちゃいますか? 私は合格の自信なかったので電報屋さん頼みました(合否を確認するためだけに新幹線代出してもらうわけにはいかないし)。で電報が来てから上京して諸手続きをしました。大学からの合格通知は来てません。私の先輩の友人にもそういう方がいたそうです。あの当時合格者にすら通知してなかったのは早稲田くらいじゃないかな?」
裏総理「田中さん、ですよね。僕も落選するとは、おかしいな、と思ってはいたのですよ」
田中さん「安藤 貴樹 さん 私は商学部です、マスコミ研究会です。れっきとした先輩だった可能性ありますね。私の次かその次の年くらいかたマークシート採用だったと思う。私の頃は全てボールペンで回答でした」
裏総理「運に賭けたのですがね・・・」