4425 北島先生の借家(高田紀行14)
6/13/18
高田紀行14
糸魚川素泊まり安宿4500円、8畳一間、床の間付き和室。厠、浴場、冷蔵庫共有の長屋風。
冷房26度に設定して、明け5時に起床。肌寒さを感じ、窓を開けると、なんと外の風の方が遥かに冷たい海辺の街。人夫たちが昨夜浸かった湯を抜き、新しき湯に浸かり、洗濯機を回す。洗剤も用意されている心やさしき宿。
長正さん、晴子さん、進さんと1時間以上にわたり懇親、再会を願い正午過ぎに辞する。
次に見かけた農夫に声をかける。すでに50人は超えた。とりあえず、出会った人全員、バスの運転手も含め、犬とカラス以外、動く生物全てに声をかける。ドアもノックして飛び込みも10軒はした。
そしてついに辿りついた。
農夫が2軒紹介してくれて、そこの人が教えてくれ「ああ、その家ならワシの知っとる人なんが」と言って案内までして事情まで説明してくれた。
「はい、拙宅で間違いございません。北島先生は、我が家に奥様と治彦さんと3人で住まわれた時期がございました」
昭和19年秋から約一年間、戦火の東京を離れ、故郷頸城郡安塚村に疎開された北島先生が、教え子たちを東京に残し、どのような暮らしをされていたかという事実から、当時の心境を探りたかった。
「平成4年でしたでしょうか?先生が安塚町の名誉町民になられた時に、テレビ局の企画でこの家に来られて『そうそうここじゃここじゃ、懐かしい』と喜ばれておりました。その時に先生にお茶を出させていただいたのが私です。先生は『なにもいらん、なにもいらん』とおっしゃっられておりました。とてもお元気そうで、はい、私はよく覚えております」
悦子さんと言う。実に上品な奥様だ。
戦前は200人の宴会ができたとう村で唯一の料亭。
軍隊や、警察の御用達の屋敷である。空いてる部屋がいくつかあり、そこに先生とみゆき夫人と治彦少年が間借りしていたのだ。
最初は広い玄関で立ち話だった。
「上に上がってお茶でも召し上がりますか」と接していただくも、社交辞令の範疇と判断して辞する。節度ある大人の対応だ。←あ、ボクのことね。
最初こそ、見知らぬ無頼漢の突然の訪問に戸惑う。正直、見て括れは三流以下の部類、靴も磨いていない。鼻水こそ垂れてはいぬが、腹は相応以上に突出している。怪しいか怪しくないかと、問われれば、みんなだいたいの人は分かっちゃいない、10人が9人は怪しいと答えるのが道理。だが、時々見抜く人がいる。
「おばあちゃんが生きていればねえ。よく先生の話をされてたのよ。あなたが来ることが分かっていれば、ちゃんと聞いておいたのに」
おばあちゃんは昨年、100歳で他界された。北島先生がもし存命なら117歳、十分に被っている。悦子さんは自分のことのように悔しがり、やがて彼女の身の上話に発展する。30分を過ぎ、私は玄関の上がり框(かまち)にもそっと腰を置く。
続きます。