5277 秩父宮ラグビー場の軌跡
1/12/19
FBFの皆さま、おはようございます。
さあいよいよ大学選手権決勝ですね!なんだかどんよりとした空模様、夜には雪ですか、波乱の予感です。帝京や早稲田に勝った時のように、受けずに最初からチャレンジャー精神で攻めていけば、素晴らしい結果が訪れます。明治の本のPR原稿は、本日が最終回です。秩父宮ラグビー場の歴史の一端です。本日、決勝戦に行かれる方は、是非読んでください。お付き合いくださいましてありがとうございました。明大ラグビーの必勝を祈願いたします。
(作成中の明治本の原稿の一部です。手違いでこちらに反映されていませんでした。本日が最終回ですが、長文ですので、明日から過去に遡って掲載させていただきます。ラグビーファンの方はぜひお読みください。本日、秩父宮ラグビー場へ行かれる方は特にお願いいたします」
ー女子学習院跡地
天に抜ける蒼々の空、ちぎれに遊ぶ浮浪(はぐれ)た白雲。外苑の彼方上空へ続く宇宙目掛けて蹴り上げた楕円のボールは、観衆の刮目を独占した。スローモーションに回転する革色の楕円は、太陽の光と交わり一瞬だけ消えた。そして美しい放物線の名残りを曳き、いとも簡単に無人のフィールドにドスンと弾んだ。前へ横へ、そしてまた前へ。
蹴り上げた男の名は北島忠治当時47歳。誰よりも先にジャージを纏い、真っ先にロッカールを飛び出す。両手で掴んだボールに満腔の想いを馳せ白線の外側からインフィールド中央に力の限り蹴り込んだ。これが東京ラグビー場、のちの秩父宮ラグビー場でのキック第一号とされている。もちろん公式記録ではない。「俺が一番最初に球を蹴る」。北島忠治が密かに目論んでいた壮大なる悪戯。自身と仲間たちの肉体の一部、化身となったフィールドに今、確かに楕円球という名の生命を降り注いだ。
昭和22年11月22日土曜日のこけら落とし(完成はその二日前の20日)。終戦からわずか二年、辺りはまだ焼け野原の残骸で風を遮る建物すらない。数多の人々が家族や家財を失い、喰うことすらままならない背景。バラックでもあれば増しな方で、すでに冬の到来が始まった寒空の東京。球蹴り遊びよりも喰うこと、生活することが優先だという批判くらい受ける覚悟ならできている。「あれ(秩父宮ラグビー場)はね、僕の身体(生命)の一部みたいなもんなんだよ」と北島はその話になると決まって嬉しい顔をした。
日本のラグビー先駆者たちは百折不撓の潔い魂で、必ずや成さねばならぬ日本の復興を渇望し、この楕円球を途絶すことなく次の世代に繋ぐ使命を自らに課した。命以外のあらゆる財産と情熱を絞り尽くした。香山蕃(しげる=のちの日本ラグビー協会会長)、北島らを中心としたラグビー場建設の創世記メンバーは幾度も膝を突き合わせ議論を積んだ。男たちの執念は狂気にも映った。飢えた野犬に女性が食い殺されるという事件が普通に起きた同じ東京の空の下で、男たちは家族の生活の糧までも持ち出してラグビー場の建設に心血した。これを正気とは言わない。
瓦礫の東京、ラグビー場ができそうなまとまった土地を都心部で探すことは容易ではない。もともとが陸軍の練兵場で民家がない明治神宮外苑近辺を隈なく探し回ったが、ことごとく進駐軍に接収されていた。ようやく、明大OBの伊集院浩(昭和7年卒 PR)が偶然にも見つけ出した土地こそが現在の秩父宮ラグビー場である。
伊集院は鹿児島出身だが神田猿落町(神田区仲猿楽町=当時)に在る順天中学を経て明治に入学した。順天中学の卒業生には社会運動家の大杉栄や、ラストエンペラー愛新覚羅溥儀の側近だった工藤忠らがいる。伊集院は昭和6年(1931年)北島監督の元、京都帝国大学を下し明治が初の全国優勝を成した時のメンバーである(主将は岡田由男)。翌1932年には日本代表としてカナダ代表と交え2つの代表キャップを得た。伊集院は卒業後、毎日新聞の運動部記者となり、その傍らでラグビーに携わり、時間を集めては明大和泉グランド(当時)へ足繁く詣で後輩の指導にあたっていた。当時、関東協会の理事長の要職にいた北島の手足となり、東京ラグビー場の建設に奔走したひとりである。
今日、当たり前のような顔をして当たり前のように明治神宮外苑の一角にそびえる秩父宮ラグビー場ではあるが、そこはB29爆撃戦闘機の直撃で粉々に破壊された女子学習院の校舎の跡地であった。
女子学習院は弘化4年(1847年)、秩父宮ラグビー場と深い関係にある秩父宮雍仁(やすひと)親王の曽祖父にあたる仁孝天皇によって創設された皇室女子教科専門の学習所である。明治10年(1877年)、華族のために創立された学習院(現在の学習院大学)よりも歴史は古く、その女子学習院はもとは永田町の御料地(天皇家の個人的財産)にあった。ところが大正7年(1918年)、火災で焼失したために現在の秩父宮ラグビー場がある場所に移転し、惨事の教訓を生かし火災にも耐えられる頑丈な新校舎を竣工した。それから27年後、終戦まであと3ヶ月と迫った昭和20年(1945年)5月にB29の直撃を受け粉々に砕かれた。曽祖父・仁孝天皇のご遺志を形を変えて曾孫の秩父宮殿下が継承された数奇な縁と言えなくもない。
中略
問題は、神宮外苑一帯はほとんどGHQに接収され彼らの管理下にあったということだ。そのため女子学習院跡地にはドラム缶が山で放置され、GHQが駐車場として軍用車を並べていた。GHQが相手ではラグビー場の用地探しは困難を極め、行き詰まり状態が続いていた。ところが、新聞記者の伊集院が調べたところ、まさに女子学習院の跡地だけは、どういうわけかそこだけが奇跡的には管理下から外れ、まだ明治神宮に使用の権利が残されていたというのだ。その事実を知るや、日本ラグビー協会の香山蕃会長は電光石火の勢いで明治神宮鷹司宮司にラグビー場としての使用を直訴した。
わかってはいたが順調に思惑が運ばれたわけではない。神事を司り、国民全体を復興の対象とした明治神宮と、楕円の球なる遊戯の端くれと捉えられてもおかしくない世情。ラグビー愛好者が増加したとはいえ、正論を用いての反論は分が悪い。国民全体の立場から見れば、わずか一部の愛好者の嗜好を天秤にかけることすらが、そもそもの筋違いである。ラグビーと神事の接点は悲しいほど稀有で無に等しい。学生の球の蹴り合いごときに、どれほどの人々が北島や伊集院、香山らと同じ夢を描くことができただろうか。情熱の空回りに男たちの靴は擦り減り、それでも諦め切れない夢だけが虚しく纏わりついた。理想をカタチにできない歯がゆさと、力不足の自己嫌悪の中、男たちの夢の背中を押してくれた人物がいた。秩父宮雍仁(やすひと)親王がその人物である。
落成の日から5年後の、昭和27年9月14日。天候記録には残暑厳しいとある。秩父宮殿下は病気療養中であり、体調もすこぶる思わしくなく外出を反対する者多数の中、それでも東京ラグビー場(当時)におけるオックスフォード大学来日記念試合に駆けつけた。
「私もかつて短期間オックスフォードの生活を味わったことがある。そのときの楽しい思い出は常に私の心によみがえってくる。したがって皆さんを外国のチームとして迎える気持ちがおこらない。しかし、皆さんは言語、風俗、習慣もちがい不便を感じたり、まだむし暑い時期で心身に負担がかかるのを心配している。日本のラグビーチームやファンはラグビーの祖国、英国のオックスフォード大学チームの伝統ある美しいプレーを学び、また英国のスポーツマンシップ、青年紳士を代表する大学生のマナーに大きな関心と期待を持っている」(「近代ラグビー百年 香山蕃追悼」池口康雄著 より抜粋)
50の齢を迎え病床から駆けつけた殿下は、グランドでオックスフォードの選手たちに、そう語り、ひとり一人に感謝と労いの握手をされた。皇族と大学生という垣根を超え、親しみをさりげなく伝え、その中に畏敬と感謝の念を忘れないラグビー精神そのもののジェントルなスピーチではないだろうか。その後、山登りを得意にしていた殿下だが、スタンド上段に設けられた貴賓席までの階段は、息を切らし、たどたどしい後ろ姿に多くの観衆の憂いが募った。
殿下は一皇族という枠を越え、日本のラグビー界全体の発展にご尽力を注がれた偉大な功労者であり、秩父宮ラグビー場生誕の父であると称しても過言ではないだろう。巷によくある名義貸し、冠を被せたという類の形式的なものではない。東京ラグビー場が秩父宮ラグビー場に呼称を変更された理由を後世に残されるべきである。