5647 一杯のお粥と二本の水 その7
2/21/21
『一杯のお粥と2本の水』その7
月灯りもない地下室は漆黒の森。そこはかのない不安は四肢を自力で動かせないという恐怖ではなく、脳を空(くう)にできないという己の精神力の弱さにほかならない。脳内に残る様々な不安という魔物を禅の境地で空にできれば、それは己自身が生み出す幻想であり、実際には存在しないのだよ、と2500年くらい前にサンスクリットの小高い崖の上の平らな石の上で、仏陀さんに教えていただいたはずだ。
2018年6月23日、タイの森林公園、タムルアン洞窟の遭難事故を覚えているだろうか。突然の豪雨で洞窟内が瞬く間に浸水、サッカーチーム12人の少年とひとりの青年コーチが閉じ込められた。暗闇の洞窟、寒さ飢え、それよりも少年たちの精神がもつかどうかが外界の関心事であった。結果として救助のダイバーひとりが生命を落としたが、10日後に、全員無事に救助された。世界はこれを奇跡と呼んだ。
しかし、彼らは極めて平然としていた。どうしてか?彼らは全員が仏教徒、コーチは青年僧侶。日頃から禅(瞑想)で脳を空にする訓練をしていたからだ。仏陀の教えに忠実だった。
脳を心を空にしようと思えば思うほど、そこはかとない不安が泥水のように湧き出でて、あるいは天井から冷たく滴ってくる。うう、気持ちが悪い。吐きそうだ。誰か洗面器を。誰か水を一杯。
築23年の木造5階建。重なる地下変動で、最下部の部屋から軋む。引き戸にできた隙間は約1センチ。もう完全に閉まることはない。階下の裸電球の灯りの暖光が、縦一本の筋となり、我が床(とこ)を照らす。これが唯一の灯りだ。それでも光明。あの紐のような灯りを握って昇って行けば、抜け出せるかもしれない。
本物の森なら、枯草の下から百足(ムカデ)のような恐ろしい虫たちや、木の枝から猛禽類が、我が身果て、生命活動を終了して朽ちて食物と化す終焉(とき)を静かに待つのだろう。
仮に今がその時だとしても、意識ある恐怖なら、落ちて目覚めの来ない安堵を誰もが選ぶだろう。それが生と死。
眠りに落ちたあと、明日の朝、確実に目覚める保証など何人にもない、という事実を、否定できる者がいたら、私は逢いにゆきたい。
掲載した写真を見て、人は何を連載するだろうか?
私は姉が車で旦那を送りに行かねばならぬ、というので、まだバブバブの子を「少しの間なら」と善意で預かることにした。まだ喋れぬ女の子。姉は「助かる」と言った。
左手にその子を抱き、自宅に戻る。裏口から入ろうとすると、何故か鍵が空いていた。そして勝手口の外に見覚えのない、男物の靴が。
そっとドアを開けると、足元から黒い影が勢いよく飛び出した。まるで室外へ脱走する犬や猫の勢いだ。私は咄嗟にその犬猫の足首を捉えると、それは人間の子供だった。まだ小学校低学年くらいのボウズ。
「泥棒か?」の問いにボウズは「そうだ」という。
私は左手に赤ん坊を抱き、右手で泥棒小僧を床にねじ伏せた。
勝手口の向こうに野菜畑があり、そこを無邪気な中年男が自転車で横切る。何も畑の中を自転車で。
私はその男に大声で叫ぶ「すみませ〜ん、すみませ〜ん、ケーサツ呼んでくださ〜い」
男は自転車を止め、ジャンパーのポケットから携帯を取り出しピポパする。
間もなくパトカーの赤色灯が家々の隙間を賑わせてくる。いったい、何台来たのだろう。
やがて警察官と野次馬が私を中心に半円状態で遠巻きに囲む。警察官はなかなか来ない。「なにやってんだ早く来いよ」ガキがジタバタ抵抗し始めて手が疲れる。
やがて2人の警察官が腰銃を抜き、銃口を私に向け、慎重な足取りで近づいてくる。「えっ?」こ、この光景、ドラマで見たことある。ウソやろ!
夢には深層心理、願望や欲望、過去の恐怖や成就しなかった未練が如実に現れるという。しかし、この漫談のようなオチはいったい何だったのだろうか?
夢を鮮明に記憶するという特技は子供の頃からだ。なんの足しにもならないけど、夢は夢でとても楽しい。
軋んだ扉から漏れた一筋の光明を掴んでみようかと、一瞬、そう思ったが、夢から覚めた一瞬のまどろみはすでに消え、また胃の不快感という現実が容赦なく訪れた。
つづく