少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6217 彼女がくれたマウンド

6/7/21

fa30y (06/07/21) 4:59起床 二度寝、三度寝。W931

 本日はウルトラ警備隊、ジム30分。

 盛田幸妃
昭和44年11月21日、北海道芽部郡鹿部町で生誕。
平成27年10月16日、転移性悪性腺腫のため死去。享年45歳。

 北海道で漁師をしていた父親が出漁中に虫垂炎にかかり、たまたま近くにいた大洋漁業の船に収容され一命を取りとめた。その後、大洋にドラフト1位指名された高校生(函館有斗高校=ラグビー明大主将〜神戸製鋼・小村淳とは高校の同級生)の盛田は「今度は僕が助ける番」と恩返しを誓う。

 野球をはじめたのは、5歳のとき実弟をリンパ肉腫で亡くし、その弟が遺したオモチャのグラブで遊ぶようになったのがきっかけだった。
 優しい顔立ちだが、酒豪というより、後半は酒に溺れたこともある。盛田本人が「年俸1億もらっていたけど、貯金はゼロ。全部酒に使った」というのは真実である。

以下は大阪近鉄時代、盛田幸妃、倫子夫人共著による『彼女がくれたマウンド』(光文社刊)より抜粋。

初めて異変に気づいたのは、平成10年の5月。大阪ドームでの対西武戦だった。
調子は悪くなかった。しかし、なぜか右膝が思い通りに動かない。妙な違和感がある。

6月、横浜の自宅で就寝中、いきなり右足首に激しい痙攣がきた。とっさに両手で足を押さえつけたが、痙攣は止まらない。はてしなく続くように感じられた。

7月10日前後になると、症状はますます悪化する。
7月15日に一軍登録を抹消された。

8月になって再び一軍に復帰。しかし、状態は前より確実に悪くなっていた。右肘に原因不明の痛みが走り、一日に三、四回は右膝下の痙攣が起こった。

8月後半、脳外科でMRI検査をやった。頭の左側のてっぺん近くに、そこだけ抜け落ちたかのように直径6センチほどの丸い空白があった。脳に腫瘍ができていたのだ。

以下、盛田幸妃略歴。

函館有斗高時代に3度の甲子園出場。3年の夏、1回戦で上原晃の沖縄水産に敗退。同年のドラフトで長嶋一茂の外れ1位で横浜大洋から指名を受け、契約金4800万円、年俸420万円で入団。
ルーキーイヤーの1988年5月21日の中日ドラゴンズ戦で一軍デビュー。しかし鳴かず飛ばすで2軍暮らし。1992年、5月下旬に先発から中継ぎに転向し、中継ぎとして登板した出場がほとんど(52試合中46試合)でありながら規定投球回に達し、最優秀防御率のタイトルを獲得し自己最多チーム最多の14勝を挙げた。
 オールスターゲームにも監督推薦で初出場。だが球団名が横浜ベイスターズに変更された翌1993年は、春季キャンプ前の自主トレ中に右ひざ靭帯を損傷し、22試合出場に終わる。
1994年に登録名を「盛田 幸妃」から「盛田 幸希」(読みは同じ)に変更。1995年はリーグ最多登板、オールスターゲームに監督推薦で2度目の出場。
 1996年に先発投手に転向し、レギュラーシーズン開幕投手を務める。しかし、リリーフとの調整法の違いや先発投手転向に伴いフォームの変更をしたことにより制球に苦しむようになり、危険球で退場処分されたのを機に成績が落ち始める

 1997年、2年連続で開幕投手中日ドラゴンズ戦)となるが、1回裏に立浪和義先頭打者本塁打を打たれる。この試合はナゴヤドーム初の公式戦であり、同球場の第1号の被本塁打投手となった。試合も負け、盛田はナゴヤドームでの敗戦投手第1号ともなった。この年の一軍先発登板は4月以降は無かった。同年オフ、中根仁との交換トレードで近鉄へ移籍。

 1998年に登録名を「幸妃」に戻す。近鉄移籍後はリリーフ専任に戻り開幕から好投していたが、5月末頃から右足首の違和感や麻痺などが起こり次第に状態が悪化、8月13日に一軍登録抹消。検査の結果、ゴルフボール大の髄膜腫(良性の脳腫瘍)が見つかり、9月に摘出手術を受ける。

 このとき医師から「スポーツ脳に腫瘍があり、普通の生活に戻れても、野球選手としては諦めなければならないかもしれない」と通告される。手術後も右足に麻痺が残る後遺症があったがリハビリで克服。
 驚異的な回復力で翌1999年8月には二軍戦に登板できるようになり、同年シーズン最終戦で一軍復帰した。

 2001年6月13日の福岡ダイエーホークス戦、同点の5回裏一死一・二塁で登板してピンチを抑え、7回表にチームが勝ち越して1082日ぶりの勝利投手となる。また、7月4日の対千葉ロッテマリーンズ戦、同点の10回表無死満塁で登板してわずか2球(一邪飛、遊併殺)でピンチを抑え、その裏にチームがサヨナラ勝ちを収めて2勝目を挙げるなど、この年は34試合に登板して近鉄の12年振りのリーグ優勝に貢献する。

 オールスターゲームにも中継ぎ投手部門でファン投票1位で選ばれ、カムバック賞を受賞。2020年度シーズン終了時点で、パシフィック・リーグから同賞を贈られた最後の選手である。

 2002年9月25日に、同年シーズン限りでの現役引退を表明。10月6日のオリックス・ブルーウェーブ戦(大阪ドーム)で引退試合が行われ、5年振りに先発をした。同年、球団職員として横浜ベイスターズに復帰した。

 2005年夏に脳腫瘍が再発。翌2006年2月に除去手術を受けて成功。しかし2010年に脳腫瘍の転移による骨腫瘍が発生、2013年には脳腫瘍も再発、骨への転移と手術も繰り返すようになり、2014年春には大腿骨を骨折した。

 2015年に入って全身に癌が転移し自宅療養に入っていたが、10月16日午前、転移性悪性腺腫のため死去。

 壮絶な闘病人生。盛田さんがベイスターズの広報時代、一度だけ小村淳さんの伝言を伝えたことがある。「オフになったら飲みに行こう」と。「ああ、いいっすねえ。ぜひ、と伝えてください」。たったこれだけである。

今、生きていること、ただそれだけに感謝しましょう。

 本日もついてる、感謝してます。

ps 本日のウルトラ警備隊帰り、桜上水の山路さんにて夕食。
「危なかったねえ。さっきまで明治のラグビー部に占領されてたんだよ(笑笑」と山路さん。まだトンカツ残ってた。セーフ。

少数派日記21

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