少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6220 藤井将雄さんの人生

6/8/21

fa30y (06/08/21) 6:09起床 W931→933

 昨日から第14クールスタート。本日は9:00〜9:50、エアロ。
11:00、N原税理士新宿。12:00、新宿「どん底」厚切りチャーシューステーキランチ1100円、旨し。15:00、北沢税務署。16:00、梅ヶ丘、K司法書士。書類揃いました。
 電話にて新案件2本。中国と電話繋がらず、メールにてやりとり。

 

藤井将雄(本名、政夫からプロ入り時に将雄に改名)
昭和43年10月16日、福岡市西区今宿にて生誕。
平成12年10月13日、肺癌のため死去。享年31歳。

 父・藤井義一(建築業)と母・正子は将雄9歳の時に別居。それまでは星一徹・飛雄馬のような野球父子関係だった。
 別居を機に姉・妹と共に母の出身地・佐賀県唐津市へ転居。母は呼子町の朝市で働き、将雄をはじめ3人の子を女手一つで育てた。のたり松太郎のお母さんのようである。
 
 父は別居状態のまま将雄中1の時(昭和60年)、40歳で倒れて心停止状態に。高1の将雄が家族を代表して、人工呼吸器の停止を医師に告げた。

 市立湊中学校から県立唐津商業へ。甲子園経験なし。卒業後は日産自動車九州に入り、エースとして活躍する。給料は手取りで10万ちょっと。将雄は、ほとんど貯金して平成6年、住宅ローンを組み、母親に一軒家をプレゼントする。

 ところがその平成6年1月21日、姉・志津美が28歳で交通事故死。

「姉ちゃん、生き返ってくれよ。お願いだから返事してくてよ」
兄が無言の姉に涙声で訴えました。
母は何度も何度も、ただひたすら姉の名前を呼び続けていました。
冷たい霊安室に母の声が反響し、わたしは言葉もなく、しばらく霊安室で泣き続けました。(妹、マリ子さん)

同年、チーム初の都市対抗出場を果たし、準々決勝に進むが日本新薬に敗退。
広島アジア大会日本代表に選出され、金メダルを獲得。この時のチームメートに松中信彦仁志敏久がいる。同年のドラフトで福岡ダイエーホークスから4位指名を受けて入団、背番号は「15」。

藤井は1年目は途中から先発を任され、8月16日の西武ライオンズ戦で完封。だがその後は伸び悩み、3年目から中継ぎへ転向。
1999年に26ホールドを記録。パ・リーグ最多ホールド記録(当時)を樹立し最多ホールドを獲得する。「炎の中継ぎ」と称され、ダイエーはリーグ優勝を達成。藤井も入団当初の目標であった「王貞治監督を胴上げする」も達成した。
同年のドラゴンズとの日本シリーズでも2試合に中継ぎとして登板、チーム日本一に貢献。

だが、その年、夏頃から藤井がマウンド上で咳き込む様子が見られ、周囲は「登板過多による疲れではないか」としていたが日本シリーズ前の身体検査で異常が見つかり、シリーズ終了後に入院した。

 本人には知らされなかったが、「余命3か月の末期肺がん」と診断され、藤井の実際の病状を知っていたのは、藤井の家族と当時の中内正オーナー代行や瀬戸山隆三球団代表などのフロント上層部、王監督をはじめとする首脳陣の一部、個人後援会、後援会から病状を知らされた親友の若田部健一など一部の者のみだった。

「マウンドに上がるという気持ちがあれば、気力で病気を克服できるかもしれないから」という家族の懇願もあり、藤井には間質性肺炎と偽った病名を伝えた。球団首脳もその意向を組み取り、本来は戦力外により解雇となってもおかしくないところを、藤井が優勝に貢献する活躍を見せたことを踏まえ、年俸倍増で契約更改した。藤井は11月に行われたV1記念パレードの翌日に入院した。

翌2000年、藤井は入退院を繰り返しつつ、二軍の練習に参加して二軍戦6試合に登板するまで回復した。最後のマウンドになるかもしれないことが伝えられていた尾花高夫投手コーチは藤井に「今すぐ一軍に上がって来い」と電話したが、藤井は「(二軍で)結果を出せていないのに(一軍に)上がることなどできない」「一軍に上がるということは誰かが二軍に落ちるということ。そんな甘いもんじゃない」と固辞し、一軍で登板することはなかった。

6月末に福岡ドームに隣接する国立病院九州医療センターへ再び入院した。入院後もウェブサイトに日記を掲載し、優勝を間近にしたナインに叱咤激励し続けたが10月には心臓や肺に水がたまる状態が続き、藤井は自分のチューブ姿を見せたくなかったためか一部の関係者以外は病室には入れなかった。

チームがV2を達成したのを見届けた6日後の10月13日に容態が急変し死去。31歳没。32歳の誕生日を迎える3日前のことであった。藤井の誕生日でもある10月16日に告別式が行われた。

葬儀には王監督を始めダイエー全選手の他、元チームメイトの工藤公康(当時読売ジャイアンツ)、下柳剛(当時日本ハムファイターズ)も参列した。
出棺時は、工藤・若田部を筆頭に、秋山幸二小久保裕紀村松有人松中信彦城島健司鳥越裕介大道典嘉西村龍次が藤井の棺を担いだ。
工藤と若田部の2人は火葬にも立ち会い、藤井との別れを惜しんだ。工藤・若田部の両者は、同年の日本シリーズの第1戦に先発として対戦したが、それぞれ藤井の遺骨をしのばせて登板している。

死の直後、個人後援会関係者の代筆で「皆様へ」で始まる藤井の最後のメッセージが、在福マスコミや個人ウェブサイトに公開された。戒名は「勝球院秀峰明政居士」

(『宙に舞った藤井ハリー ダイエー藤井将雄物語』藤井正子、マリ子著より抜粋 = 勁文社)

 父、姉、そして本人。日常が、ある瞬間に非日常となる日常。対岸の火事ではないようにするために、一日の始まりと終わりに、今在ることに日々感謝いたしましょう。

本日もついてる、感謝してます。

ps 本日、10年ぶりくらいに新宿「どん底」。しかもランチ。ナポリタンにするつもりが、カウンターのアニキが喰らいついてるの見て、自分もチャーシューステーキ。嗚呼、『どん底』で、またへべれけになりたいなぁ。
日刊ゲンダイ時代はこの界隈(ゴールデン街、要町、2丁目)が最終目的地。ほぼ毎晩。ローゲ吐きながら歩いて帰ったもんよ。

少数派日記21

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