少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6223 バースの日記

6/9/21

fa30y (06/09/21) 6:59起床 W933→不測定

 ブローカーなので合法かつ利益になるなら、なんでもやります。
本日、午前、映画関連2本。横浜の土地3件、世田谷1件。電話交渉。昼、中国のビジネスパートナーと電話。広州はコロナで危ないのでマカオに避難中だそうです。かつてマカオの裏通りを案内してもらったけど、また行きたいな。
 午後、税務署から電話。滞納してる法人税の支払いについて。午後、ジム50分。夕食はオリジンの100円オムスビx2個。

 
ランディ・バースは日本球界、いや、阪神タイガースから追放された・・・。

阪神は6月17日に戻らなくてもいいと言った。古谷代表の自殺をオレのせいにした日本球界。息子、ザックの難手術は延々10時間にも及んだ」
(『バースの日記 涙と怒りの記録』集英社刊より抜粋)

サブタイトル「バースが綴った怒りと真実の日記」。もうこれだけで内容が伝わってくる。
阪神はこうしてバースを裏切り、のちにこうして妥協した。
・父ランディから息子ザックへ「とにかく生きていてくれ」
・200万ドルと三冠王を捨ててもバースは人間の道を選んだ。
・バースを切り、掛布を引退に追い込んだ阪神の体質。

 阪神21年ぶりの優勝(1985年)の最大の功労者バース。2年連続で三冠王に輝いた史上最強の助っ人は、目が覚めると消える夢のように日本を去った。来日6年目の88年シーズン途中だった。

 開幕から22試合で4番の座に就いていたが、5月5日の巨人戦を最後に戦列を離れた。体調を崩していた長男・ザクリー君が水頭症を患っていることが判明し、5月14日にアメリカへ緊急帰国した。

 手術と長期に渡る放射線治療で予断を許さぬ状況が続き、バースは期限とされていた6月17日までに日本へ戻ることができず、球団は解雇を通告。だが、激怒したバースは再来日の期限やザクリー君の治療費、年俸支給などについて契約との不一致を主張し猛抗議。それを苦にした古谷代表が自殺した、と報道されたが、もちろん真相はわからない。

 幸いザクリー君は回復して、今も元気に暮らしている。自分や、家族の生命より大切な仕事など、地球上にはひとつもない。これは私の持論です。
 親の死に目にも会えない職業と言うけれど、もし間に合う可能性があるならば、試合の途中でも駆けつければいいと思う。それで文句を言うファンやチームメートはいないと思う。

 ランディ・ウィリアム・バース Randy William Bass 1954年3月13日 オクラホマ・ロートン生まれ。67歳。

 阪神時代は割愛して、阪神以前のバースの経歴。

 1972年ドラフト7順目でミネソタ・ツインズへ。その後、カンザスシティ・ロイヤルズモントリオール・エクスポズ〜サンディエゴ・パドレステキサス・レンジャーズと5球団を転々とする。つまり芽が出なかった。
 ただし、飛距離はオバケ並みで、ついたあだ名が「ニューヨークからロサンゼルスまで飛ばす男」であった。しかし、実際の評価は「ウォーニングトラック・フライボールヒッター」というものであり、つまり、打球に伸びがなく、フェンス手前でおじぎをする。つまり練習と本番で違いすぎる打者として評価は低かった。結果、メジャー通算本塁打は9本に終わっている。
 また、幼少時に足を複雑骨折していたことから全力疾走ができない状態であり、守れないということでレギュラー獲得には至らなかった。エクスポズ時代のチームメイトには、後に巨人で活躍するウォーレン・クロマティがいた。

 1982年のオフ、ハワイのMLBウィンター・ミーティングでは、阪神のほか阪急、ヤクルトなど日本の球団がバースに関心を寄せていた。ツインズGMジャック・マキーオンがバースの代理人であったアラン・ミヤサンドに「ヤクルトを優先してほしい」と声を掛けてくれていたこともあり、ヤクルトとしては改めてビデオを確認したうえで「日本では活躍できる」と確信し、契約寸前にまで至った。だが、守備難がネックで一塁しか守れなかったこと、当時のヤクルトの一塁には大杉勝男杉浦享という強打者が二人おり被ってしまうため、当時の監督の武上四郎が急に難色を示しだし、結果的に大杉、杉浦を優先したことから合意には至らなかった。
 ヤクルトが撤退し、最後は阪神と阪急との間で獲得競争となり、阪神の渉外担当藤江清志と阪急常務の矢形勝洋が契約金額を競り合ったが、ブーマー・ウェルズに着目した阪急は乗り換えて手を引き、12月18日に阪神への入団が正式に決まった。

 総括

 1988年、水頭症を患った長男への対応を巡り球団と対立し、シーズン途中の6月27日に解雇された。契約では家族の疾病の際には球団が医療費を負担することになっており、多額の医療費を負担することを恐れたための解雇だった。
 この経緯については、退団後に発売された自伝『バースの日記』でも述べられている。なお、このバース退団後の7月19日、当時の阪神球団代表だった古谷真吾が東京都内のホテルで飛び降り自殺する事件が起き、バースの退団をめぐるトラブルで球団とバースの板挟みになったのではないかと報じられた。
 この一件は、後に球団側が示談金を払ったことで解決した。まだ34歳で肉体的な衰えも見られなかったことからメジャー3球団からオファーが届いたり、ヤクルトスワローズ中日ドラゴンズや福岡に移転したばかりの福岡ダイエーホークス入りが度々報じられたが、結局この年をもって現役生活を終えた。
 1988年当時監督だった村山実と当時のベテラン選手たちの関係性は冷えきっていた。『バースの日記』(集英社文庫)では、「罰則のハードなランニングをしたからといって、われわれが上達するというのか。まったく、バカな話である」と根性論の指導法に疑問を呈した。

 で、その後のバースは。

 阪神退団後に離婚するが、のちに再婚して1児をもうけた。幼いころに重病を患った長男のザクリーは結婚し、グッドイヤーに勤めている。また、子供たちも結婚し、3人の孫にも恵まれている。
 8歳のときにアメリカの競馬場でホットワーカー(厩務員)をした経験があり、日本では親交があった翻訳家・平尾圭吾のすすめで社台サラブレッドクラブの一口馬主となっていた。2011年時点ではアメリカのローカル競馬に出走する競走馬を5頭所有する馬主となっている。
 ルーテル教会に属し、教会役員(長老)に就いている。

 なんだかなあ〜。

本日もついてる、感謝してます。

少数派日記21

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