少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6274 知の巨人逝く

6/23/21

『知の巨人』逝く。

 立花隆(本名=橘 隆志 1940年(昭和15年)5月28日 - 2021年(令和3年)4月30日、享年80歳)さんとは、たった一度だけ、偶然に四谷三丁目の寿司屋で隣席したことがある。自分がまだ四谷に住んでいたころだから30数年前になる。
 立花さんはすでに大物作家、ジャーナリストだったけど、僕が自費で行けるような大衆寿司屋だった。隣席で「旨い、旨い」とつまんでいた。
値段的に、そこまで絶賛するほどの店ではなかったので、「普段はどんな寿司を食べているのだろう」と感じたことを覚えている。
 たぶん出版関係のスタッフと一緒だったと思うけど、何もこんな大衆寿司屋で接待しなくても、と感じていた。

 業界の超大物で躊躇したけど、気さくそうだったので、声をかけてみた。10分くらいだったと思うけど、話をしてくれた。
 東京新聞の先輩記者の千葉敦子さんについて、いろいろと話してくれた。千葉さんは自身の乳がんの手記を何冊も執筆され、「癌」を通じて立花さんと親交があり、自分も執筆のテーマをスポーツから「癌」に移行したい、と考えている時期だった。

 出会いはそれだけだった。名刺は頂かなかったと思う。頂かなくても誰でもわかるからだ。あの頭脳が死して灰になり、森深く土に戻るのが惜しくてならない。悲しみより、残念である。
 どうぞ安らかに。
 
立花隆

 ジャーナリスト、ノンフィクション作家、評論家。執筆テーマは、生物学、環境問題、医療、宇宙、政治、経済、生命、哲学、臨死体験など。
 
 1940年、長崎県長崎市生まれ。父は長崎の女学校教師で後に編集者を務め、母は羽仁もと子の信奉者で、クリスチャンの家庭。戦前の右翼思想家・橘孝三郎は、父のいとこに当たる。1942年(昭和17年)、父が文部省職員として北京の師範学校副校長となったため、一家で中華民国へ渡る。

 1946年、引き揚げで日本へ戻り、一時母方の茨城郡那珂西に住み、のちに父の郷里茨城県水戸市に移る。茨城師範学校茨城大学)附属小学校、中学校を経て、1956年(昭和31年)に水戸一高、さらに千葉県に移ったため東京都立上野高校へ転入。小学校時代から読書に熱中し、自らの読書遍歴を記した文章を残している(この本、家のどこかにあると思うのだが見つからず)。また、俳優の梅宮辰夫・モータージャーナリストの徳大寺有恒は中学時代の先輩である。

 1959年(昭和34年)、東京大学文科二類へ入学。在学中は小説や詩を書き、イギリスで開かれた原水爆禁止世界会議に参加。卒業論文はフランスの哲学者メーヌ・ド・ビラン。

 
 立花さんは、長年、痛風、糖尿病、高血圧、心臓病、膀胱がんなどの病気を患い入退院を繰り返してまいりました。一年前大学病院に再度入院しましたが、本人が検査、治療、リハビリ等を拒否したため、旧知の病院に転院。

 この病院で立花さんは「病状の回復を積極的な治療で目指すのではなく、少しでも全身状態を平穏で、苦痛がない毎日であるように維持していく」という院長の考えのもとで入院を続け、4月30日の夜に看護師が異常を感じて院長に連絡をしたものの、到着を待たずに急逝した。

 令和3年4月30日の午後11時38分、急性冠症候群のため逝去。

 治療を拒否されたと言うことは、やり残すことはもうない、と捉えていいのだろうか?死について、あるいは死後について、世界最高峰の知能が消滅して、また誰か新しい知能がどこかで生まれ、もしくはすでに生まれて背を追っていく。
 お茶の水博士、あるいは天馬博士のように、このような優秀な脳をそのまま再生させて生かすことは、なんとかできないものか。
 
 臓器移植が可能になったのだから、近未来に、脳の移植ができないものか。お叱りを受けるかも知れないが、立花さんの死は、歴史的建造物が火事で消滅する思いである。なんとも大きな損失。身体全体が重くなった。

 どうぞ、安らかに。

少数派日記21

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