6275 小川健太郎、背面b投げ
6/24/21
fa30y(6/24/21) 5:11起床、二度寝7:13起床 w不測定
「鳩、鳩、鳩〜、わかるでしょ、鳩、鳩」
昨夜10時過ぎ、入院中の老母から謎の電話。寝ぼけているのか、あるいは来る時が来たのか、少し怖かった。
結論から言うと「来週の月曜日に退院が決まった。ついては医師や看護婦さんにお礼をしたいから鳩サブレ〜を送って欲しい」とのことでした。
な〜んだ、ということで、午前、新宿の小田急へ。汽車でひとつめ。高い家賃払ってるからね、新宿にはすぐに行ける。
で、鳩サブレ〜、一番でかい缶48枚入り、送料込み6000なんぼ。その足で、お隣の虎屋さん。義母も腰を痛めて自宅で療養中。外に出れないで気の毒だ。安城の実母にサブレを送るときには義母にも同じ金額の虎屋の羊羹を送ります。虎屋の羊羹、自分も食べたい。高いけど、美味しい。
てなわけで、散財。「他人に優しく自分に厳しく」これが座右の銘なんて、自分はなんてカッコイイんだろう、と自己陶酔しながら、小田急地下にある赤坂更科蕎麦をスルーしてハルク地下の梅本立ち食い蕎麦へ。うわ、エコノミーサラリーマンの巣窟三密ヤバいヤバい。かけ蕎麦の予定だが、最大限の見栄を張り、ケツネを入れて390円。勢いをつけるために120円のムスビを追加。
そのまま笹塚に戻りジム。エアロバイク60分しかし突然のトップ睡魔、ソファで寝落ち60分。誰もいないから使い放題。
本を読もうと思いコッペパンの田島へ。しかしアカン、睡魔優先。メルカリ出して全自由買って帰宅。クーちゃん、尻尾垂らして寝てやがるし。
香港のリンゴ日報強制廃刊、正義、善意が権力と暴力によって蹂躙される。
世界のメディアがダンマリを決め込むことも、恐ろしい。同業の端くれとして、許し難い。日本の加藤棒読み官房長官の魂の抜け殻、腑抜けたコメント、こいつとは絶対にトモダチになりたくない。
私の会社は香港にあるけど、実は撤退を視野に入れている。コロナも経済も報道も、実は形を変えた戦争なのだ。
『小川健太郎』背面投げの侍
1934年1月12日 福岡県久留米市出身の辻斬り的野球選手。
明善高校卒業後、1954年に東映フライヤーズへテスト入団する。しかし肩を痛めて在籍2年で自由契約となった。1955年8月27日には西鉄ライオンズ戦への初登板を命じられていながら、前日に先輩選手と殴り合いのケンカをした事で機会をフイにしてしまい、そのまま退団へと至った。
東映フライヤーズ退団後は社会人野球でのプレーを選び、照国海運(軟式)を経て、1956年、創部したばかりのリッカーミシンに所属した。1957年の都市対抗野球南関東大会準優勝に貢献したが、ここで一度野球を諦めて学研の一般社員となる。週末に遊びで草野球をする程度という日々をしばらく送っていたが、知人の誘いを受けて本格的な野球を再開した。
電気化学を経て、1958年からは立正佼成会(準硬式、チームは1961年に硬式へ移行)に所属した。1959年に国体の準硬式優勝に貢献し、1962年の都市対抗に日本ビールの補強選手として初出場した。1回戦で電電近畿を相手に先発し、エース・永易将之との投げ合いとなる。小川は9回から継投に入ったが、電電近畿は永易が投げ続け、延長22回まで共に無得点のまま進む。大会史上最長記録の熱戦となるが、太田誠(電電東京から補強)のサヨナラ本塁打で日本ビールがこの試合を制した。この大会は準々決勝で日本通運名古屋に敗退した。1963年の都市対抗にも熊谷組の補強選手として出場した。立正佼成会のチームメートに黒江幸弘(現・透修ゆきのぶ、がいた。黒江も小川と同じく、熊谷組の補強選手として都市対抗に出場。同大会で首位打者になったことら、巨人にスカウトされ、V9戦士となった)。
黒江が巨人に入団した1964年、時を同じくして、中継ぎ投手陣の補強を急務としていた中日ドラゴンズに小川はスカウトされた。すでに30歳、3人の男の子の父親になっていた。
が、シーズン当初は杉浦清監督と折り合いが悪く、二軍暮らしを余儀なくされていた。しかしチームの成績不振で杉浦が休養となり、代理監督に西沢道夫、ヘッドコーチに社会人時代の小川を知る坪内道典が就任すると一軍に抜擢され、主に中継ぎで9試合に登板する。
1965年はシーズン当初から先発ローテーション入りを果たし、17勝9敗、防御率2.43(リーグ10位)の好成績を挙げて一躍エースの座に君臨する。
1966年も2年連続で17勝をあげ、防御率2.19でリーグ〔5位〕に入ると、1967年は29勝12敗・防御率2.51(リーグ6位)の好成績で最多勝利のタイトルを獲得し、ベストナインと沢村賞を受賞した。本格派投手に贈られてきたこの賞が技巧派投手に贈られるのは大変珍しいことだった。
1968年10勝20敗と成績を落とすが、1969年には復活して2度目の20勝に到達のする。同年6月15日には当時絶好調だった読売ジャイアンツの王貞治に対し、腕を背中から繰り出す「背面投げ」を行った。背面投げはこの1試合だけという俗説があるが、これは誤りで、同年の8月31日と10月19日の試合でも王に対して背面投げを行っている。小川は当時、王以外の左打者にも背面投げを「時々使う」と宣言していたが、実際には王にしか投げていない。
ギャンブル好きが高じ、全盛期にあった1970年5月6日に暴力団員と共謀してオートレースの八百長を仕組んでいた容疑で逮捕される。6月3日に野球協約の統一契約書の不履行を理由として永久失格処分を受け、二度とプロ野球のマウンドに戻ることはなかった。
プロ野球での八百長(黒い霧事件)への関与疑惑もあり、中村素至の記述では小川自身は法廷で否定しているとされたが、一方でスポニチの報じるところでは小川は公判で1969年7月26日の対大洋ホエールズ16回戦(川崎球場、2-0で大洋の勝利)で敗戦投手となり、現金70万円を受け取ったと証言しており、これが決め手となり永久追放となったとされている。
引退後は、スナック経営を経て名古屋市内の不動産会社に勤務。後に上京し、没するまで都内の不動産会社に勤務した。晩年は頻繁にアマチュア野球の観戦に赴いていたという。
小川の投球スタイルは、アンダースローの大きなバックスイングで投げる投球はコントロールもよく、伸びのあるストレート、大きなカーブ、シュート、「いったん浮かんでから沈む」と形容されたシンカー、スライダーなどを持ち球とした。本来はアンダースローであるが時折サイドスローやオーバースローで投げたり、素早い投球フォームから緩い球を投げ、逆に緩やかなフォームから速球を投げたりするなどの工夫で打者を惑わせた。後述の背面投げもそうした工夫の一環である。
このような個性的なピッチングスタイルは、バーベルやダンベルを使用したウエイトトレーニングや、温水プールでの水泳など、当時の日本の野球界では珍しかった先進的なトレーニングに支えられていた。また、キャンプ前に下半身を作っておいて、キャンプではランニングに手を抜いして投球練習に力を入れる。オープン戦でも、地方球場はグラウンドの整備がよくないため力を抜いて適当にプレーするなど、自分なりに強弱を付けた調整法も身につけていた。
体つきは細かったが、よく鍛えられた鋼のようなバネがあった。特に手首の柔軟さと強さは尋常ではなく、下手投げで、中日球場のホームベースからバックスクリーンに軽々と放り込んだという伝説を持つ。
我々、少年ドラゴンの憧れの的で、背面投げの練習をしないガキはいなかった。小川健太郎、江藤慎一、ヤクザのようなサムライプレーヤーはもう絶滅した。行儀良く爽やかなスポーツマンばかり。なんか違う。人の匂いがしない連中ばかりだ。
1995年10月8日、午前3:30。肝臓がんのため、藤沢湘南台病院にて死去。享年61歳。葬儀と告別式は神奈川県藤沢市の湘和会堂六会で行われた。
私はひとり、憧れの死者に会いに藤沢へいった。数珠と香典を持って。桐の棺の中の白く小さな顔。子供の頃、ドキドキしながら見た健太郎さんは日に焼け、大きな背番号13だった。ひょいひょいって投げて、何事もなかったようにベンチへ歩く。打席にはOもNもベースを見つめたままじっと立ち尽くす。
葬儀は小さな会館だった。30人くらいだろうか、想像していたのと違った。本当は健太郎さんのこと書きたかったけど、先越されてしまった。いいや、違うカタチで残してみたい。男くさい男たちのド昭和の魂のプロ野球。
本日もついてる 感謝してます。
小川健太郎さんの享年、今の自分と同じ年。あれからもう26年経ったのか。
これからは、お会いしたい人にどんどん会って、いろいろと話を聞かせて頂こう。どなたか、出版社を紹介してください。紙が無理なら電子書籍でもいいです。
少数派日記21