少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

6276 プロ45年、根来広光

6/25/21

fo30y(6/25/21) 6:49起床 w 951

 ぐっすり寝れた。目覚めもいい。しかし、なんだろう、このウエイト。常識的にはあり得ん。敗因としたら2日間連続で田島で生クリームコッペパンを食したくらいで、あとは暴飲暴食なし。不気味だけど、一時的なリバウンドだと思う。明日の計量に期待しよう。
 それよりも問題なのが、トップ睡魔。異常だ。本日も昼、ジムのエアロバイクで漕ぎながら寝てしまった。とにかく眠い。夕方も坂道を登りながら、今度は歩き寝、我ながら器用にこなす。ただひたすら眠い。みなさんはどうですか?

 午後、青山、246沿いの洒落たカフェーでミーティング。レモネードをオーダー。過日のすき家のレモネード売り切れ以来、飲みたかった。
 会合後千吉でカレーうどん、ライス付きのダブル炭水化物。やはり眠い。
入院中も母親から、鳩サブレが届いたと電話あり。かなり嬉しそうだった。
 読みたい本、観たい映画、売りたいモノ、書きたいこと、会いたい人、たくさんあるけど、とにかく眠たい。

根来広光

 もしも、疎開が一週間遅かったら、金田正一の400勝の達成はなかったかも知れなかった。
 疎開は金田ではない。金田の豪速球と縦に割れるカーブをノーサインで受けてきた捕手の根来広光のことだ。
 広光8歳の夏、昭和20年8月6日。原爆投下直前まで広島市内に住んでいた根来家は、現在の府中市疎開して直撃を免れた。その後、大分に移り別府市で中学時代を過ごす。その別府で姉の高校の同級に河村英文がいた。

(河村英文=別府緑丘高校では小嶋仁八郎監督の指導を受けた。4年後輩に後の同僚となる稲尾和久がいる。卒業後は東洋高圧大牟田を経て、1953年に西鉄ライオンズへ入団。シュートを武器に1年目から活躍し、9月10日の毎日戦では荒巻淳と投げ合い初完封を飾る。2年目の1954年にはリーグ最多の61試合に登板し、25勝12敗を記録して初のリーグ優勝に貢献。中日との日本シリーズでは5試合に登板し、第3戦では大島信雄に投げ勝ち完封勝利。しかし第5戦は4回からリリーフして逆転負け、第7戦で先発し杉下茂との投手戦となるが0-1で敗退した。また野村克也のプロ初打席(1954年6月17日)の対戦投手は河村である。河村は野村を3球三振で打ち取っている)

 広光は再び広島に戻ると府中高校に進学し、エースで、県内では有名な投手になった。当時の広島はレベルが高く、広瀬叔功・木下強三ら県内の同期は7人がプロ入りした。卒業後の1955年に東京鉄道管理局へ入部すると、1956年には熊谷組の補強選手として都市対抗に出場。決勝に進出し日本石油藤田元司と投げ合うが惜敗、準優勝にとどまった。ちなみに中日・小川健太郎、巨人・黒江透修らが熊谷組の補強選手となったのは、それから7年後の1963年のことである。

 1957年、20歳で国鉄スワローズへ投手として入団。契約金は100万円。広光はこれを現金で受け取り二重の腹巻きに仕舞い込み、当時20時間ほどかけて夜行列車で広島の実家に持ち帰った。車中、一睡もできなかったという。

 同年は3試合に登板しているが、早々に二軍落ち。小樽で行われた巨人戦で馬場正平から本塁打を打ち、試合後の馬場に声をかけると、「生まれて初めてホームランを打たれたよ」と言われたそうである。
 ちなみに馬場は一軍の公式戦では本塁打を打たれていない。その後は宇野光雄監督からの打診により、高校・社会人でそれぞれ短期間経験した捕手に転向することとなった。
 
 当時の国鉄の捕手陣は谷田比呂美、佐竹一雄らが定位置を争っていたが、同年のシーズン終盤から先発マスクを被る。転向後に球団幹部からは「金田正一の球をノーサインで捕って一人前」と無理難題に近い要求をされたが、実家を養わなければならない根来は受け入れるしかなかった。
 
 捕手としてのデビュー時は極度に緊張し、宇野は主審に「このキャッチャー、新人だから頼むよ」と言った。その時は意味が分からなかったが、1球目はストレートで主審が「ストライク!」のコール。それをパスボールし、ボールは当時は低かったバックネットの網に直接当たった。観客は失笑、チームメイトも「ストライクをパスボールしたヤツ、初めて見た。それもストレートだよ」と大笑い。監督が主審に言った意味が後から分かったという。
 1958年には開幕直後から正捕手として起用され、その後は8年間にわたりレギュラーの地位を守った。最初は金田がサインを出した。金田は直球、縦に割れるカーブ、スライダーに近いカーブと三種類しかなく、大きな手振りでサインを出すので、何を投げるかは分かり易かったが、それでもバッターは打てなかった。

 金田の投球を必死に研究し、やがて直球とカーブを投げる際の微妙なフォームの相違を発見し、1961年頃からはノーサインで捕れるまでになった。豪球ゆえ、指は腫れて太くなり、骨も変形、命懸けで体を張って捕球した。その努力に金田も恩義に感じてか、後にロッテオリオンズの監督に就任すると、2年目の1974年に根来をコーチに招くなどしている。金田の400勝は、根来なしでは到達しなかった記録である。

 打撃面では100安打以上を記録したシーズンは1度も無かったが、1964年には当時のリーグタイ記録である8打席連続安打を達成。1965年頃からは、平岩嗣朗や岡本凱孝に定位置を譲ることが多くなった。
 1965年のサンケイ(産経)スワローズ、1966年のサンケイアトムズへの球団名変更を経て、1967年に阪急ブレーブスへ移籍。同年は岡村浩二の故障もあって、シーズン後半の33試合に先発出場。巨人との日本シリーズも2試合に出場し、第3戦では先発マスクを被る。

(岡本浩二=覚えている方も多いのでは、あの日本シリーズで退場の岡本捕手である。
1969年10月30日に行われた巨人対阪急も日本シリーズ第4戦(後楽園)での事。
4回裏・巨人の攻撃、無死一・三塁の場面で、一塁走者・王貞治と三塁走者・土井正三ダブルスチールを敢行。阪急の二塁手・山口富士雄がホームに返球し、土井は岡村のブロックに跳ね飛ばされた形となった事からアウトと思われたが、球審・岡田功は「セーフ」の判定を下した。激昂した岡村は岡田を殴って、日本シリーズ史上初の退場処分となった、あの時の捕手である

 岡本は中国・天津市生まれで、6歳の時に丸亀に引き揚げ、高松商業では石川陽造とバッテリーを組み甲子園に2回出場。1957年には春の選抜では、準々決勝で倉敷工の渡辺博文に完封を喫す。
 3年生時の1958年は春季四国大会決勝に進み、エース板東英二徳島商と対戦。石川、板東が互いに無失点で延長25回に進むが、最後は岡村の適時打などで2-0と勝ち越し優勝を飾る。同年夏の県予選決勝で高松一高を降し、夏の選手権に出場。この大会でも準々決勝まで進むが、作新学院に1-2で惜敗。同年の富山国体にも出場、決勝まで進むがまたも作新学院に敗れる(日程が雨天順延で遅れ、決勝はオープン戦となり記録上は二校優勝)。

 石川とは立教大学でもチームメイト同士であったが、岡村は2年で中退し、1961年に阪急ブレーブスに入団。プロ入り3年目の1963年にはレギュラーに定着、規定打席(28位、打率.234)にも到達し、打率こそ低いが一発長打を秘めたバッティングを武器に活躍した。1964年にはオールスターゲームに出場。この頃には野村克也(南海)の影に隠れながらも、パ・リーグを代表する捕手の一人となっていた。しかし怪我や故障による欠場も多く、1965年以降の3年間は規定打席に到達していない。

 1967年からのリーグ3連覇にも、主力捕手として貢献した。同年の巨人との日本シリーズでは最終第6戦に城之内邦雄から本塁打を放つなど、18打数6安打2打点と活躍。1969年にはライバル・野村を押しのけて、初のベストナインを受賞。だが同年の日本シリーズ第4戦では、球審・岡田功の判定に激怒し、岡田を殴って日本シリーズ史上初の退場処分を受けた。

 1971年にもリーグ優勝を経験したが、同年オフに種茂雅之との珍しい「正捕手+立教大学出身同士」の交換トレードで、阪本敏三・佐々木誠吾と共に東映フライヤーズへ移籍(阪急へは種茂と共に大橋穣も移籍)。日拓ホーム時代は高橋直樹とバッテリーを組んでノーヒットノーランを達成している。移籍後は腰痛悪化で出場機会が次第に減り、チームの親会社が日本ハムに変わった1974年のシーズン途中で現役引退した)

 あの時の日本シリーズの一年前、1968年には出場機会が減少、同年限りで現役を引退した。
 
 なお、王貞治が第1号本塁打を打った時の捕手であるため、王が500号を打ったあたりから、節目の本塁打を打つたび、「第1号はどんなボールでしたか」と、新聞記者からよく電話が掛かってきたという。王は開幕戦から鳴り物入りでデビューしたにも関わらず、26打席無安打が続き、とても悩んでいるという噂が流れていた。根来も捕手転向時にはとても苦労したため、王が可哀そうになり、村田元一に「お前、同じ東京(出身)だろ。打たせてやれよ」と冗談で言った。第1号本塁打の球種はスライダーだったそうである。

 引退後は阪急→オリックス(1969年スコアラー, 1970年コーチ兼スコアラー, 1971年 - 1973年二軍バッテリーコーチ, 1992年 - 1997年二軍監督, 1998年 - 2001年編成部)、ロッテ(1974年 - 1976年一軍バッテリーコーチ, 1977年 - 1979年二軍バッテリーコーチ)、ヤクルト(1980年 - 1983年一軍バッテリーコーチ, 1984年 - 1986年二軍バッテリーコーチ, 1987年 - 1988年二軍監督, 1989年 - 1991年編成部)で監督・コーチ・フロントを歴任。ロッテコーチ時代には現役時代にバッテリーを組んだ金田の下で1974年のリーグ優勝・日本一に貢献し、オリックス二軍監督時代には河村健一郎二軍打撃コーチの進言を受け、入団1年目のイチロー(当時の登録名は本名の鈴木一朗)を1年間、1番・中堅手で起用した。

 根来さんは現役12年間で1083試合に出場、オールスター4度出場。背番号の遍歴は「37」「27」「24」「71」「82」「72」。ちなみに加藤俊夫→大矢明彦古田敦也に継がれてきたスワローズ(アトムズ)の正捕手の背番号27は根来から始まった。
 審判・平光清は自著の中で、400勝の金田のようにノーサインで容赦なく投げてくる投手の快速球を受け続けながら、みずからは決してPRすることのなかった「ゴロちゃん」のような縁の下の力持ちこそ、真のナンバーワン捕手ではないか、と述べている。

 ヤクルトの球団事務所に行くと、よく根来さんが声をかけてくださった。根来さんが編成担当時代で、ユニホーム姿を知らず、当方の勉強不足ゆえに、根来さんがこんなに凄い選手だったとは、恥ずかしながら存じていなかった。
 私のラグビーの記事を読んでくださっていて、ほとんどがラグビー談義だった。「いつかご一緒に秩父宮で」との観戦の約束は果たせないままだった。

 ヤクルトである問題を起こし、球団に居られなくなった高野光をオリックスに入れたのも根来さんだった。もっともっと話を聞かせてもらえばよかった。
 入団以来45年間、一度もプロ野球から離れることなく活動されていた。余談だが細川護熙元総理とは義兄弟。

 2009年11月27日、胃がんのため神奈川県藤沢市内の病院で死去。
根来さんの訃報を受けた金田さんは「(根来さんは)私の野球人生に欠かすことの出来ない人物だった」と語った。
 享年73歳。

本日もついてる、感謝してます。

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