6281 伊良部秀輝の死の真相
6/27/21
昨日のつづき『伊良部秀輝』
時間というものは科学的に証明されるエビデンスがない。つまり1分と2分の間には60秒の隔たりがあり、では同様に1秒と2秒の間には1/60分=0.0167分の隔たりがある。ゆえに、この理屈が延々と繰り返されるわけで、時間というのは実態がなく、単なる概念である、という論理が少数の科学者、あるいは哲学者、宗教家、スピリチュアルの見解であり、自分もその論理を理解するひとりである。
なにが言いたいか。つまり時間は存在しないのである。
しかし、生き物の生と死は確実に存在する。心停止により、心臓から血液(酸素)が脳に5分以上供給されないと、脳細胞は徐々に壊死し、最終的に脳幹が壊死した時点で脳死、臨終となる。生命維持装置を装着して無理やり心臓を動かしても脳死判定が下れば、永久に蘇生することはない。
2011年7月27日、伊良部秀輝の遺体が、ロサンゼルス近郊の秀輝の自宅で発見された。きっかけは地域の日本人コミュニティの草野球だった。
伊良部は暴言癖があり、マスコミやファンに悪態をよくついた。ゆえに一般的なイメージは最悪である。大谷と真逆に位置していた。
しかし、本当の秀輝は単なる悪ガキ、悪童がそのまま大人になったような人物で、その言動ほどに悪意も表裏もない。暴言は一瞬で、少したてば、目が笑っている。少年なのだ。
だからプライベートで付き合うコミュニティの人々は秀輝に優しい。秀輝が経営していたうどん店の客らが中心となり、それぞれバラバラの運動着で草野球の広場に集まった。そこで缶ビール片手にアンパイアをしたり、時には代打で打席に立ち、ゲーム後のバーベキューを楽しむ、そんな無邪気な週末を過ごしていた。
奥さんとは離婚調停中(だったと思う)。可愛い子どもがいるから、引退後、秀輝は家族での団欒が夢だった。自分の両親が離婚して、寂しい少年時代を過ごした思いや、差別やイジメにあったトラウマを抱えていた。
甲子園、158k、ヤンキース、タイガース・・・。どんな栄光より、秀輝が望んでいたものは、家族との団欒だったのだと、私は個人的に、そう読んでいる。
ヤンキース2年目の1998年はスプリングトレーニングで右ひじを痛めた。それにより100球の球数制限を指示される。開幕からローテの一角を担い、5月下旬には防御率リーグトップに立ち、5月は4勝1敗、防御率1.44、WHIP1.05の成績で日本人初のアメリカンリーグ・ピッチャー・オブ・ザ・マンス受賞。
6月に調子を落としオールスター選出はならなかったものの、14試合の先発で6勝3敗、防御率2.91、WHIP1.23の成績で前半戦を折り返した。
しかし後半戦は1試合のリリーフ登板を含む15試合の登板で7勝6敗、防御率5.21、WHIP1.35と調子を落としポストシーズンでの登板はなかったが、チームはワールドシリーズを制覇し、秀輝はメジャー2年目にして、日本人初のMLBチャンピオンリングを獲得した。成績は13勝9敗だった。
翌1999年、スプリングトレーニング最終日の試合で一塁ベースカバーを怠り、スタインブレナーから「彼は太ったヒキガエル。一塁カバーを怠るなんてありえない。ヤンキースの一員としてあるまじき失態だ。体重252ポンド(114.3キログラム)なんて愚かとしか言いようがない」と言われ、さらにキャンプ地への居残りを命令された。
その後スタインブレナーは態度を和らげたものの、開幕当初はリリーフとして起用。5月2日のカンザスシティ・ロイヤルズ戦で先発に復帰。7日のシアトル・マリナーズ戦ではマック鈴木との史上初の日本人投手同士による先発が実現し、7回を4安打1失点5奪三振の投球で勝利投手となる。
13日のアナハイム・エンゼルス戦では長谷川滋利との投げ合いもあった。7月は4勝0敗、防御率2.64、WHIP1.08の活躍でキャリア二度目のピッチャー・オブ・ザ・マンスを受賞。
ヤンキースタジアムでの試合で一塁ベースカバーに入りアウトを取った際にはスタンディングオベーションが起こった。しかし8月中旬から5連敗を喫し、後半戦は1試合のリリーフ登板を含む15試合の登板で5勝4敗、防御率5.60、WHIP1.50の成績に終わる。
ポストシーズンではボストン・レッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズ第3戦の3回無死一塁の場面に登板したが、4回2/3を13安打1本塁打8失点と打ち込まれた。ワールドシリーズでは出場選手登録を外れたため登板の機会はまたしても無かったが、チームはワールドシリーズ優勝を果たし、自身2個目のチャンピオンリングを獲得した。シーズン成績は11勝7敗だった。
その後、秀輝はモントリオール・エキスポス、テキサス・レンジャーズを経て、2002年12月7日に阪神と1年2億円で契約。6年ぶりの日本球界復帰となった。
当初、星野仙一監督は秀輝に抑えを任せたかったが、伊良部本人の希望により先発組となった。この年はオールスターゲームにも1996年以来7年ぶりに選出され、古巣・ロッテの本拠地千葉マリンスタジアムでの第2戦に先発して3回無失点と好投し、優秀選手賞を受賞した。そしてシーズンでは13勝を挙げ、阪神の18年ぶりのリーグ優勝に大きく貢献(前半9勝2敗、後半4勝6敗)。しかし、後半戦は球威が落ちて勝ち星は伸びなかった。福岡ダイエーホークスとの日本シリーズでは第2戦と第6戦の2試合で先発するも機動力に翻弄され、いずれも早い回で降板して敗戦投手となった。
岡田彰布監督となった2004年はキャンプイン後の沖縄で暴行事件を起こして30万円の罰金処分を受けた。開幕直前にタンパベイ・レイズとの日米野球プレシーズンゲーム先発。開幕早々に前年の日本シリーズで露呈したセットポジションでの欠点(盗塁を防ぐ牽制が下手な点)を衝かれ、登板数は3試合のみ、防御率は13.11という不調もあって、オフに戦力外通告を受けた。
翌2005年開幕直前、最初の引退表明。持病の膝痛に苦しんでの決断であった。
その直後、秀輝は再び渡米し、グリーンカードを取得して、高校時代の友人と共同で、ロサンゼルスでうどんのフランチャイズチェーン店「SUPER UDON」を開業した。当初は人気店だったが、わずか3年で閉店した。
2008年8月には大阪市北区のバーでクレジットカードが使用できないことに腹を立て、店舗の破壊および店長を暴行した容疑で現行犯で逮捕された。秀輝は10月16日に書類送検されたが、不起訴処分となった。この件について団野村の著書『伊良部秀輝〜野球を愛しすぎた男の真実』によると、店側が伊良部のカードをスキミングしようとしていたことが原因であり、後日店側がスキミングを行っていたことが明らかになった。
ヤンキースへの入団といい、カード事件といい、コミュニュケーションに難の多い、秀輝は、誤解を招きやすい体質、もしくは運命なのかもしれない。
そして不完全燃焼、野球への未練が残る秀輝は、2009年4月27日、北米独立リーグ「ゴールデンベースボールリーグ」に加盟するロングビーチ・アーマダに入団。給料は月給で1500ドルだった。
5年ぶりに現役に復帰し、初登板初先発で勝利投手になった。同年8月には日本独立リーグ「四国・九州アイランドリーグ」の高知ファイティングドッグスに入団。ここでも月給は16万円だった。
しかし、ここでもまた、情熱を燃やし尽くすことはできなかった。同年9月、右手首腱鞘炎で全治3週間と診断された。シーズン中の復帰が困難となり、伊良部側の希望により契約解除となり退団した。
高知での成績は2試合(12イニング)に登板して0勝0敗、6奪三振11四死球で防御率5.25であった。
秀輝がプロ選手としての最後のマウンドとなった。
それから2年間、心に大きな傷と不安を抱えたプロレスラーのようなガタイの野球少年は、現実と夢、夢と現の間を彷徨っていた。実在のない時間、空間を行ったり来たり。あの夏の甲子園の大歓声。清原を討ち取った158k。ヤンキース入団の記者会見。星野阪神の優勝。たった42年の生涯に繰り返された栄光と挫折と孤独。重圧に耐えられなかったのは膝と手首だけではなかったのだ。
7月24日から連絡が途絶えた。草野球の仲間が心配して秀輝の家を訪ねた。呼び出しのベルに応答がない。窓の隙間に見えたのは宙吊りになった日本の大きな足だった。死亡推定時刻は7月24日〜27日の間で、いわゆる命日は不明。遺書はなかった。
地元の警察は自殺と断定。ロサンゼルス郡検死官事務所によると、秀輝の血中から大量のアルコールが検出されていた。自殺の理由は不明。
ただ、野球少年秀輝は日本で指導者となることを希望していた。しかし、トラブルメーカーのレッテルを貼られ、受け入れる球団はなく、解説者や評論家の道も閉ざされていた。将来に不安を抱いていたことは事実だが、当時、一番大切にしたかった家族との別居が最大の原因ではないか、と指摘する声もある。
生き別れた父を探すためのメジャー挑戦。家族を幸せにするための職業野球。どこかで小さな歯車が噛み合わず、やがて自らの思考の歯車擦り切れて空転した。160kの速球王が最後に選んだ球種は明らかに、究極の選択ミスだった。
2日後の29日に、ヤンキースが試合前に黙祷した。秀輝がメジャー初登板初先発初勝利を挙げた試合で捕手を務めたジョー・ジラルディ監督は「一緒にいて楽しい、よきチームメートで、何度も好投してくれた。旧友を失うのはつらい。彼にも子供がいるし、悲しいことだ」と語った。
チームメートのデレク・ジーターも「言葉の壁はあったが、周囲が思う以上にいろんなことを理解する楽しい人物だった。悲報を聞いたときは言葉を失ったよ」と追悼した。
楽天の監督に就任した星野仙一は「ロジャー・クレメンスやメジャーリーガーの話をいっぱいしてくれた。野球の話になると、少年のような瞳になるんや。本当に野球が好きで好きでたまらん、そんな奴だった」と阪神時代の秀輝の想い出話をした。
秀輝の葬儀は8月3日に近親者のみで行われ、遺骨は秀輝本人の希望ではロサンゼルスのリトル・トーキョーにある東本願寺ロサンゼルス別院に納骨してほしいとのことだったが、秀輝の妻とその母親の意向により四十九日を待たずに千葉市内の寺院で無縁仏として無量寿堂に納められた。
少数派日記21