6316 追悼・大島康徳さん1
7/6/21
fa30y(7/5/21) 6:49起床 w 937
ジム19クール目に突入、皆勤です。30分、エアロバイク、シャワしてウルトラ警備。本日のドライバーさん、伊豆の新学校から巣鴨の新聞販売店で新聞奨学生で2浪、2年間も新聞配達しながら代ゼミへ通った苦労人。自分は同じく、早稲田で新聞配達して早稲田予備校の同志。話が弾む。
山中に実家があり、交通機関もなく高校には通学できず、町中の寺に寄宿して3年間を過ごす。実家では牛の乳を絞り、生計を立てていたという。だから客の不条理も特に気にならない。
大学には進学せず、花屋に勤め、長嶋茂雄邸や美空ひばり邸に花を届けた。花屋時代が、いろんな意味で楽しかったそうだ。
社会問題や芸能関係には詳しい彼だが、スポーツには興味なく「大島康徳さん」を知らない、と言う昭和42年生まれ、飛脚キャリア25年。まあ、それはそれでいい。現在美大予備校生の長女は、彼が朝出かけるときに、必ず「行ってらっしゃ〜い」と手を振ってくれるという。そんな日常の光景を「羨ましい。それこそが幸せだよ」と気づかせてくれる、我が家の家庭環境にも感謝しよう。
『大島康徳さん追悼1』
自分は背番号「5」の大島さんより「40」の大島さんの方が好きです、というより似合っていると思います。
ドラゴンズには守道さんや中さん、谷沢さんや田尾さんのように広角に打率を残す巧打者は伝統的にいますが、「一発長打」は江藤さん以降は外国人選手頼みでした。そこへ「一発長打の大島クン」の登場です。ガキども狂喜乱舞。
康徳は1950年(昭和25年)10月16日、大分県中津市に生まれる。中津市ってどこにあるかもあまり知られていない。
大分県の西北、福岡県に隣接し、一部は瀬戸内海に面し、山口県宇部市と対峙している。ほとんどが山林地帯で現在の人口は約7万5000人。昨年、氾濫した球磨川が流れる人吉市は近郊で、中津市の山林が球磨川の源流の一部にもなっている。戦国時代には重要な拠点となる長岩城が建久9年(1198年)に築城され、秀吉の命により、黒田官兵衛に攻められ天正16年(1588年)に廃城となる。
今でもその城址が神秘に残り、羅漢寺という太古の寺もあり、祈りの道なる神様が歩いた険しい道も残っている。
古代からの豪雨に侵食された山肌が、岩を縦に割き、日本のカッパドキアと言われるほど、小宇宙を体験できるスポットもある。
そんな自然豊か、もしくは険しい自然の町で、康徳は生まれ育った。父は国鉄職員、母、兄、姉の5人家族、今津中学時代はテニスやバレーボールに熱中し、バレーボールでは大分県選抜チームのメンバーだった。
また、相撲が強かったため相撲部に助っ人で参加することもあった。相撲の大会を観戦に来ていた中津工業高校の野球部小林監督がその身体能力に惚れ込んだ。「野球?ですか?」康徳は当初、乗り気でなかったもののスパイクとグローブをプレゼントされたのがきっかけで同校に入学。野球を始めると、小林監督の思惑通り、すぐにエース、四番打者として活躍した。
1967年秋季九州大会県予選準決勝に進むが、津久見高に敗退。翌1968年春季九州大会県予選も準決勝で高田高に敗れる。同年夏も県予選で敗退し甲子園には届かなかった。この県予選の2回戦・大分商業戦で左中間130mの本塁打を放った。この試合をたまたま中日のスカウトが視察に来ていた。
その後、康徳はドラゴンズの入団テストを受ける。本多逸郎二軍監督の目に留まり合格、同年秋のプロ野球ドラフト会議で3位指名され入団した。
当初は投手として入団したが、入団間もない投球練習でコーチから一球で「投手失格」を言い渡され、更に当時の監督だった水原茂が素質を見抜いて打者転向させた。大島を発掘した本多は彼を将来の主軸と見込み、1年目からファームの四番打者として起用した。
二軍暮らしが続いたが入団3年目の1971年6月に一軍初出場。直後に一塁手のジョン・ミラーが故障し、同年は一塁手、中堅手として64試合に先発出場を果たす。またジュニアオールスターゲームではウエスタン・リーグの主砲としてMVPを獲得した。翌1972年は開幕から中堅手、右翼手として起用され、規定打席(29位、打率.230)にも到達。しかしまだ荒削りで完全なレギュラー定着には至らなかった。
だが、この荒削りの時期が、私としては、大島さんの最も魅力的な「40」番時代でした。
1974年には三塁手、中堅手、一塁手を兼ねチームのリーグ優勝に貢献、読売のV10を阻止した。
同年のシーズン最終戦は後楽園での長嶋茂雄さんの引退試合となったが、雨で順延したため、レギュラー本隊は名古屋でのパレードのため、中日は二軍中心のメンバーとなった。中日の選手代表として4番を打ち花束を渡したのが康徳だった。
ロッテとの日本シリーズでは5試合に先発出場。最終第6戦は先発を外れるが、6回に代打で村田兆治から同点本塁打を打った。
8年目の1976年、代打起用で勝負強さを発揮しシーズン代打本塁打7本の日本記録を樹立。翌1977年には三塁手の定位置を獲得し、打率.333(4位)、27本塁打の好成績を残す。
1979年には全130試合で四番打者に座り、30本の大台を越える36本塁打、打率.317(3位)を記録した。
ところが1980年4月には交通事故で重傷を負い欠場を余儀なくされた。なんとか1か月で復帰したものの、多少の後遺症は残った。
1982年は左翼手がメインとなり、五番打者として優勝に貢献したが、日本シリーズは西武に敗れた。
1983年に再び36本塁打を放ち、山本浩二と並んで本塁打王に輝く。
輝かしい打撃成績を残したにもかかわらず代打起用が多かったのは、バッティングの調子の波が激しすぎただけでなく、守備に難があったためとされる。三塁・モッカ、遊撃・宇野、レフト・大島の地域は「魔の三角地帯」と呼ばれて、そこに打球が飛ぶと、ドラゴンズの投手陣やファンは肝を冷やした。
1987年オフ、星野監督はどうしても先発投手が必要だったため、田中富生・大宮龍男との交換で日本ハムへ曽田康二とともにトレードに出した。その際に、星野監督の意向で球団から異例の功労金をもらっている。勝負と仁義の世界である。
引退後、大島さんが癌で余命宣告を受けた際、最初に相談の電話を入れたのが星野さんだった。
「ヤス、どうした?悪い知らせか?」
「はい、癌を宣告されました」
「なんや、そんなことか。で、病院はどこや?」
「〇〇病院です」
「よしゃ、そこなら大丈夫や、絶対に治してくれる」
短い会話だった。星野さん自身も深刻な癌に冒されていたにもかかわらず、そのことを一言も告げずに電話を切った。
仁義である。野球とはグランドの中だけで完結する物語ではないのだ。
(つづく)
本日もついてます 感謝してます。
(ps 昨日 7/5アップ分です)
少数派日記