6324 追悼・大島康徳さん2
7/7/21
fa30y(7/7/21) 6:11起床 w927
夕刻から新橋で弁護士さんと打ち合わせ。酷い詐欺事件の件で。自分以外で被害に遭われた人の被害額は分かっているだけで30億円以上。血液が沸騰するわ。スキームは大きく分けて4〜5パターン。有名人を上手く絡ませての常習犯。こんなのと一年以上も付き合った自分が情けない。
その後、新橋の大富豪の姐さんに慰めてもらう。美味しいマッコリと家庭料理。その見返りに「相撲甚句」を習うことに。9月から両国に来なさい、と言われる。
『大島康徳さん追悼2』
昭和46年夏。
人類にこれといって記憶に残る出来事はない地味な年だった。
強いて言えばアポロ14号が3度目の月面着陸に成功し、逆にソユーズ11号が事故で乗組員3名が死亡した。米ソが宇宙の支配権を巡り、遥か上空で熾烈な争いをしている最中、ドラゴンズの二軍練習場である大幸球場の選手ロッカールームでは小さな事件が起きていた。
「あれ?ない?オレのユニホーム」
ドラゴンズの背番号40のユニホーム。アンダーシャツ、グラブ、スパイク。1本のバットを残して、大島康徳の野球道具一切がロッカーから消滅していた。
昨日、頭にきた二軍監督の本多逸郎が、大島の野球道具全てを処分した、とマネージャーから伝えられた。
本多は大分の山奥の高校生・大島を発掘し、中央球界では無名同然の大島をドラフト3位で指名した敏腕である。
本多は愛知県立犬山高校出身。エースで4番だったが、大島と同様、野球エリート高ではない。(後輩に平野謙がいる)。
ドラゴンズへは投手として入団テストを受け合格。しかし、天地俊一監督が、俊足と左打ちの打撃に着目し外野手へ転向させた。その後、1番・中堅手として活躍。1954年のチーム初優勝に貢献し、日本シリーズではMVPに輝いた。翌1955年には、プロ6年目にして130試合に出場し、42盗塁で盗塁王。し1962年にはコーチ専任となり同年退団。1964年に中日に復帰し、二軍コーチである傍ら一軍の公式戦19試合に出場した。翌65年には選手専任として現役復帰し、同年引退という珍しい経歴を持つ。
2年間の空白をのぞき実働14年。つけた背番号は10種に及び「1」番もつけたた。引退後は2軍監督・コーチ・スカウトなどを務め、1968年にはシーズン途中で成績不振で休養した監督の杉下茂の、代理監督を務めた。マニアックな話だが、このシーズンがドラゴンズの臙脂色のアンダーシャツにノースリーブのユニホームである。
「どうして俺を拾ってくれた本多さんが、オレのユニホームを・・・」
プロ3年目の康徳は混乱した。
「おまえ、着るもんないからグランドには出れんぞ!」
二軍マネージャーから冷たくそう言われた。
「なんでや」
しかし、すべて処分されたはずのロッカーに無言のバットが一本だけ残されていた。それが本多からの最後通告だった。
ファームは育てる場としても、打てない大島を4番で使い続ける本多に、いよいよ周囲から不満が漏れ出した。10試合でわずか1打点。ファームでもあり得ない酷い数字である。本多は周囲の声などは気にしないタイプだが、大島の態度に、ついに切れたのだ。
「大島、4番が10試合で1打点というのは、どういうわけだ?さあ、説明してくれ」
試合後、本多はファーム選手全員の前で大島を怒鳴った。大島康徳21歳、公開処刑である。
本多は自分が山奥で発掘したダイアモンドの原石を磨いてきたつもりだった。しかし原石は好んで野球を始めたわけではなかった。
たまたま本多が蹴った石ころが、岩にぶつかって、一瞬キラっと光り、面白そうだから、それをポケットに入れた本多が旅の土産に持ち帰った。康徳はプロ野球をその程度にしか、認識していなかった。
そんな程度の自分を、上を目指す野球エリートの檻に放り込み、たいした実績も残さないのに、使い続けてくれた本多の気持ちを康徳は、ようやく噛み締めることができた。
21歳、甲子園経験もない山猿が、古びたロッカールーム、パンツ一丁で延々とバットを振る。たったひとり。
後輩もできた。仲間に冷やかされ、笑われもした。「打てない4番」は、本多の無言のメッセージに裸の素振りで応えた。
まる2週間の無視。本多から、何のメッセージも届かない。後日談だが、「あれがあと、一日二日続いたら、オレ、荷物まとめて大分に帰っていたよ」とチームきっての温厚な大島がそういった。
裸素振り15日目の朝、ようやくロッカールームに40番のユニホームとグラブ、スパイクが帰ってきた。新鮮な気分だった。与えられた「4番」を自分で獲る作業が始まった。
数日後のウエスタン阪急戦。4番に座った大島は3打席連続本塁打をまばらな外野席にぶち込んだ。これが原石の素の実力なのである。
本多は試合後、大島に一言も声をかけなかった。
その翌朝、寮で睡眠を貪っていた康徳は布団を無理矢理剥がされた。
「大島、起きろ!」
どこへ行くとも告げられず、ハイヤーに押し込まれた大島は、名古屋で一番有名なテーラーに連れて行かれた。
「さあ、好きな色と生地を選べ、金額は気にするな、一番高いやつにしろ」
まだ、寝起きだ。康徳は意味が飲み込めないまま、テーラーの主人の説明を聞いた。
大島は契約金で、一着だけ、吊るしのスーツを買ったことがある。それでも高いと思っていた。大分では見たこともない額のスーツだった。
本多はスーツが出来上がるころ、大島を一軍へ推薦した。自身が拾い、育てた作品が着るに相応しい一流のスーツを、移動用にとプレゼントしたのだ。
当然、ファームの給金では買えない逸品。「一発長打の大島クン」の若かりし日、ドラゴンズのユニホームより、誇らしい移動用のグレーのスーツ。
持ち主が他界した大島家のクロゼットには、今も大切に保管されているはずである。
(つづく)
62番は本多さん。
本日もついてる 感謝してます
少数派日記21