少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

5257 紫紺の誇り3

1/9/19

明大校友の皆さま、FBFの皆さま、おはようございます。安藤貴樹です。引き続き、内容の一部を投稿させていただきます。(vol 3)

上野に到着した北島は空襲で焦土と化した街で、その足を真っ先にお茶の水にあった岸体育館へ向けた。目的は聖橋付近にあった木造二階建ての体育館内にあった日本ラグビー協会を訪ね、大戦で散り散りなった仲間たちの消息を求めることだった。香山蕃をはじめ仲間の生存確認という目的もあったが、北島の頭の中にはすでに戦後のラグビーの復興という映像が描かれていた。幸いにして事務員の山田に会うことが出来た。が、消息や詳細の確認には至らなかった。ここに辿り着くまでに多くの楕円の仲間たちが築き上げてきたものがすべて、そうすべてが一瞬にして吹き飛んだ。その後、瓦礫を避けながら、破壊された明大駿河台校舎に落胆し、神楽坂、牛込など青年期を過ごした土地を、旧知の安否を探りながら新宿まで歩いた。所有していた新宿東口駅前にあった二軒の喫茶店も焼失し、みゆき夫人と治彦と暮らしていた新宿百人町(大久保)の借家もやはり焼けていた。 
 忠治22歳の9月、大正12年関東大震災で神楽坂の叔母を亡くし、44歳で終戦、数多の仲間を失った。その時代に生を受けた者のほとんどが請け負った過酷すぎる課題。のちの世代が当時の人々に心境を求めたとて刻は一刻として老いて当事者の記憶は薄れやがて土の人となる。当時の心境を91歳の北島に問いかけたことがある。意図して思い出そうとしなかったのか、あるいは本当に遠い記憶の彼方だったのか、それ(終戦前後)以外の行動や事実関係は、まるでつい昨日の出来事のようにスラスラと口をつく北島だったが、その辺りについては「もう忘れちまったなぁ」と、ほとんどをはぐらかされた。思い出したくない記憶だったのかも知れない。
 北島は変わり果てたユーハイム(北島所有の喫茶店)と、跡形もない借家を後にして八幡山に向かった。新宿から八幡山の合宿所まで歩いて約8キロの距離。思い起こせば大正12年9月1日、関東大震災で壊滅した東京の街を北島は避暑中の静岡県沼津から八王子を経由して甲州街道を都心へと向かった。まだラグビーとの関わりを持たない時代だ。あの日から22年後、またしても焦土の街東京。そして終戦の前日、北島はあの9月とは違う、人の手によって破壊された東京の街を歩く。今度は都心から逆方向へ向かって同じ瓦礫の甲州街道を歩く。真夏の容赦ない太陽が人々の影を濃く地に映す。22歳の忠治と44歳の北島。歩く速度の違いこそあれ、その心中に宿る思いの丈を測る巻き尺は、時代を遡ったところで見つかるまい。
 北島が新宿から西に向かった甲州街道はそれから19年後、平和と復興の象徴である東京五輪エチオピアアベベ・ビキラが裸足で疾走した。前回のローマ五輪に続き2大会連続の金メダル、アフリカの英雄。当時32歳だったアベベエチオピアの貧しい小作農家の生まれで貧困から小学校も出ておらず、靴もなく裸足で過ごした人生がスポーツの感動と平和を世界に広げた。
 そんな甲州街道を北島は歩いた。明大和泉校舎の傍を抜け、途中から街道を外れてまばらな民家と畑道を縫う。ゆっくり歩いて2時間半。合宿所とグランドは攻撃の対象からは免れていた。

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