6039 間の時空4
4/29/17
「間」の話4。
2010年阪神のドラフト2位、一二三慎太。投手、東海大相模高校出身。鳴り物入り。
同年、春の選抜甲子園で大会NO1投手として出場。強力打線の援護もあり、優勝候補の筆頭だが、初戦で九州の無名・自由ケ丘高校に敗退。夏の大会で決勝で力尽きる。
ユニフォームを猛虎タイガースに代え、夏の忘れ物を探しに行くも、あの春の大会で開いたわずかな空間、いわゆる「間」を埋めることができず、一軍登録を果たせることなく、ユニフォームを脱いだ。
以下、コピペに筆を加えたもの。
一二三慎太。堺市立城山台小学校2年時より「新檜尾台少年野球部」で野球を始める。美木多中学校在学時はボーイズリーグの「ジュニアホークス」に投手として所属し、2007年のジャイアンツカップに出場し優勝した。
後に阪神でチームメイトになる北條史也は中学校の2学年後輩にあたる。東海大相模高では2年秋からエースとなり、3年春の甲子園に出場するが、1回戦で福岡県の自由ケ丘高等学校に2-4で敗退した。
次いで3年夏の甲子園では興南高等学校との決勝戦にまで進んだが、6回を投げて13失点を喫したため準優勝に終わった。
2010年のNPBドラフト会議で、阪神タイガースから投手として2巡目で指名。契約金6,000万円、年俸720万円(金額は推定)という条件で入団した。入団当初の背番号は36。
阪神時代 兆し
2011年には、1月5日に溶連菌感染症を患った影響で、春季キャンプ前の新人合同自主トレーニングから出遅れた。
さらに、キャンプ中に右肩痛を訴えたため、シーズンに入ってからは一軍・二軍とも公式戦に登板できなかった。
その結果、シーズン終了後に外野手へのコンバートを決断した。
2012年には、登録ポジションを外野手に変更した。ウエスタン・リーグ公式戦には、通算で33試合に出場。一塁手として6試合、外野手として12試合に起用されたほか、打率.178を記録した。
シーズン中の一軍昇格には至らなかったが、シーズンの終了後には、台湾でのウィンターリーグに参加した。
2013年には、ウエスタン・リーグの公式戦で4番打者を任されるほど、打撃面が急速に成長。セ・パ交流戦の序盤に首脳陣が一軍昇格を検討したほか、フレッシュオールスターゲームへの出場も決まっていた。
不運
しかし、「4番・左翼手」としてスタメンに起用された7月14日のウエスタン・リーグの対中日ドラゴンズ戦(阪神鳴尾浜球場)初回の守備で、先頭打者・野本圭の飛球をダイビングキャッチでアウトに取った直後に左足と頭をフェンスに強打。その後の診断で左足の剥離骨折が判明したため、フレッシュオールスターゲームの出場を辞退したばかりか、一軍昇格の機会も逃した。
結局、ウエスタン・リーグ公式戦には65試合に出場。打率.255、4本塁打、20打点を記録した。
2014年には、ウエスタン・リーグ公式戦64試合に出場。打率.181、4本塁打という成績を残した。
2015年には、ウエスタン・リーグ公式戦59試合に出場。6月17日の対中日戦(鳴尾浜)8回裏の打席でプロ入り後初の満塁本塁打を記録したが、打率.203、2本塁打、9打点という成績にとどまった。シーズンの終了後は支配下選手契約の解除(10月下旬)を経て、11月13日に育成選手契約への移行で球団と合意した。背番号は123。
2016年には、3月28日から6月30日までベースボール・チャレンジ・リーグの石川ミリオンスターズへ派遣。派遣期間中には、リーグ戦34試合の出場で、打率.186、1本塁打、5打点を記録した。7月1日から阪神へ復帰したが、支配下登録選手への復帰や一軍公式戦へのデビューを果たせないまま、10月1日に球団から戦力外通告を受けた。10月31日付で、NPBから自由契約選手として公示。
阪神退団後
現役続行を希望しているが、2016年11月12日に甲子園で開かれた12球団合同トライアウトには参加せず、NPBへの復帰を目指して2017年に再度石川ミリオンスターズへ入団する予定と報じられ、2017年3月8日に練習生として石川に入団する事が発表された。
この項つづく。