1412 頑張れ柳田審判
日本シリーズ第五戦、日本ハム・多田野投手の危険球退場が、柳田浩一球審の誤審だとして大騒ぎになっている。中国にいる僕は、まだ映像を見ていないので、なんともコメントできない。ユーチューブが禁止されている国だ。
読売の事務所には、打者・加藤の下品極まりない演技に抗議が殺到しているが、読売側は「あくまでも審判のジャッジに従ったまで」と反論。しかし、ネット記事を読む限り、最初の判定は「ファウル」で原一億円監督が、何やら柳田球審に声をかけ、「死球、危険球退場」へと判定が変更されたという。
いったい、何がどうなったのか?真相を知りたい。
ネット上では、誤審した柳田球審、下品演技の加藤に非難が集中している。今回の件とは関係ないが、女性問題で暴力団に一億円を払った原監督や、当時、明大生の一場投手に協定違反の多額の栄養費を支給したり、古くは江川問題、金に飽かせて各球団の主力を根こそぎ奪う金権成金主義は12球団、他に例を見ない類希な下品球団。今回の判定で、シリーズの流れが読売に傾いたとしたら、加藤は陰のMVPとして加藤には金一封の功労賞が、柳田球審には「読売新聞」一年分が副賞として贈られることだろう。
ところで、柳田球審だが、先にも書いたが、僕が東京中日スポーツでのヤクルト担当時代に入団した選手で面識がある。特に親しいわけでもなく、一緒に酒を飲んだこともない。取材する側とされる側の関係で、当時、弱小球団のヤクルトは、記事になるのは長嶋一茂が入団するまでは、荒木大輔ただひとりだけ。高野光が好投しようが、広沢克実が打とうが、三面扱い。栗山、柳田を記事にできるのは、アルバイトで書いていた、ヤクルトのファン向けの会報誌のみだった。
そんな柳田クンは、顔が似ていたこともあるが、運動神経は群を抜いていてすばしっこいため「サル」という愛称で呼ばれていた。痩身で真面目な田舎青年といったイメージ。野球が好きでたまらなく、かつ真面目な努力家だから、引退後も野球に携わるため、審判になり1000試合出場も果たしたのだろう。
ある報道では、同じ元・ヤクルトの栗山がいきなり監督になり、その嫉妬もあるのでは・・・のような内容もあったが、栗山は性格が良く、誰かから嫌われるタイプではない。少なくとも陰口を聞いたことはない。柳田も好青年。仮に犬猿の仲だとして、人間、大衆の面前で、そんな瞬時のジャッジに、好き嫌いを交錯できる冷静かつ大物は、そんなにおるまい。
とまれ、柳田球審には、今後も活躍していただきたい。そんなエールを込めて紹介したい。これで、有名人。終わったことは仕方がない。選手と違って、ミスを挽回することは極めて難しい。責められはしても、決して誉められることがないのが審判の仕事。
でも最近ではヤンキースのイチローがスーパーホームインした際「審判がよく見ていてくれた」とコメントした。最高の褒め言葉だと思う。クサらないで、是非頑張っていただきたい。
ーーーー以下、ウズベキスタンよりーーーーー
柳田浩一(やなだ こういち)
国籍 日本 出身地 徳島県阿南市 1966年7月11日(46歳)182 cm 78 kg
選手情報 右投両打 外野手 1984年 ドラフト3位
初出場 86年9月25日 最終出場 95年9月20日
経歴(括弧内は在籍年)
徳島県立鳴門商業高等学校
ヤクルトスワローズ (1985 - 1993)
近鉄バファローズ (1994 - 1996)
柳田 浩一(やなだ こういち、旧名:昌夫(まさお)、1966年7月11日 - )は、徳島県出身のプロ野球選手・プロ野球審判員。選手としてタイトルを獲得した後に審判に転進した数少ない選手。
選手時代
徳島県立鳴門商業高等学校(現・徳島県立鳴門第一高等学校)を卒業後、ヤクルトスワローズにドラフト3位指名で入団。当初は内野手であったが、俊足と強肩を活かして外野手に転向。転機は野村克也がヤクルト監督就任した1990年、持ち前の俊足と守備力を買われてレギュラーに抜擢、主に「二番・センター」として活躍した。
この年、唯一のタイトルであるゴールデングラブ賞を受賞している。その後は飯田哲也の外野コンバートなどもあり、出場機会が徐々に減った。それでも1992年の日本シリーズには守備固めとして2試合に出場、第5戦では7回裏同点に追いつかれた後、なおも一打逆転のピンチで試合の流れを変えるファインプレーを見せた。1994年に近鉄バファローズに移籍、1996年限りで現役引退。
審判時代
1997年よりパシフィック・リーグ審判部に入局。審判員袖番号は8、2011年からは5。2011年終了時点の出場試合数は1282、オールスターゲームには2002年に早くも出場、第2戦で球審をつとめている。2007年には日本シリーズに初出場を果たし、中日・山井大介の“あわや完全試合”の力投で中日が53年ぶりの日本一に輝いた第5戦では球審を務めた。選手・審判の両方で日本シリーズに出場したのは久保田治(東映投手→セ・リーグ審判員)、井上忠行(西鉄内野手→セ・リーグ審判員)に次いで柳田が3人目である。
2007年は審判員奨励賞を受賞。2009年7月5日の東北楽天ゴールデンイーグルス対埼玉西武ライオンズ第9回戦(Kスタ宮城)で一塁塁審を務め、通算1000試合出場を達成した。
また、現役中に名前を「昌夫(まさお)」に改名したが、2006年に「浩一」に戻した。
2010年に主任に昇進、役職名変更により2011年からクルーチーフとなる。
誤審・誤審騒動
2010年4月10日の東北楽天ゴールデンイーグルス対オリックス・バファローズ戦で、投手・加藤大輔(オリックス)が、打者・聖澤諒(楽天)に対して投じた内角高めのボールを当該試合の球審が死球と判定し、加藤が危険球退場に処された。後日、当該試合の審判団が危険球ではなかったと認めたが、この審判団のなかに、塁審を務めた柳田の名も含まれている[1]。
球審を務めた2012年の日本シリーズ・北海道日本ハムファイターズ対読売ジャイアンツ第5戦(11月1日)、4回表、投手・多田野数人(日本ハム)が、打者・加藤健(読売)に投じた内角高めの球を一旦はファールと判定したものの、読売監督の原辰徳の抗議の後に判定を死球に変更[2]、危険球として多田野に退場処分を科した。これに対し日本ハム監督の栗山英樹が「当たってない」と猛抗議[3]、「世紀の大誤審」[4]とも報じられた。退場処分となった多田野は「だます方もだます方。だまされる方もだまされる方」とコメントし[5]、テレビの生中継で解説していた古田敦也は、放送中に「誤審ですね」とコメントした。
表彰
ゴールデングラブ賞:1回 (1990年:外野手)
記録
初出場:1986年9月25日、対阪神タイガース24回戦(明治神宮野球場)、7回裏に宮本賢治の代打として出場
初盗塁:1986年10月4日、対横浜大洋ホエールズ25回戦(明治神宮野球場)、9回裏に二盗(投手:木田勇、捕手:市川和正)
初安打:1987年4月12日、対阪神タイガース3回戦(阪神甲子園球場)、5回表に梶間健一の代打として出場、池田親興から
初先発出場:1987年10月20日、対広島東洋カープ25回戦(明治神宮野球場)、1番・中堅手として先発出場
初打点:1990年4月10日、対中日ドラゴンズ1回戦(明治神宮野球場)、3回裏に山本昌から
初本塁打:1990年4月21日、対広島東洋カープ1回戦(広島市民球場)、1回表に川口和久から
背番号
52 (1985年 - 1990年)
0 (1991年 - 1993年)
68 (1994年 - 1995年)
42 (1996年)
登録名
柳田 浩一(やなだ こういち) (1985年 - 1992年、2006年 -)
柳田 昌夫(やなだ まさお) (1993年 - 2005年)
審判出場記録
初出場:1998年7月29日、西武対近鉄16回戦(西武ドーム)、二塁塁審。
出場試合数:1282試合
オールスターゲーム出場:2回(2002年、2006年)
日本シリーズ出場:2回(2007年、2009年)
(記録は2011年シーズン終了時)
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柳田審判員、これからも頑張ってください。個人的には、山井投手が、あの試合で交代する必要があるほど球威が衰えていたかどうかという問題。試合の流れを、両軍のキャッチャーより、一番真近で見ていた、元プロ野球経験者として、落合の判断が正しかったか否か、どうしても聞いてみたい。誰にも言わないし、ブログには載せないから、是非聞かせていただきたい、柳田球審。