1586 きょうは父の日
きょう01/18は親父の誕生日。
大正15年生まれだから、昭和64年と平成24年を足して88年。そこから昭和元年と大正15年、平成元年と昭和64年がダブるから2年を引く。つまり88年−2年=86歳と、もし生存していれば、そういう計算になる。
親父は60歳の時、腎臓の病気で他界しました。僕が新人記者一年目の26歳の時。
親父の親友でジャパンタイムスのSさんから、親父は新聞記者になりたかったけど、まあセガレがなったからヨシとしよう・・・とずっと後で聞かされ、少しだけ親孝行した気になりました。新人とはいえ、クレジット(記名入り)原稿を書かせていただいたので、親父も読んでいたことでしょう。
記者を辞め、数年のタイムラグの後、現在の「腎臓移植」の職についたのも、因縁でしょうか・・・、親父が亡くなった27年前は、まだ人工透析や、腎臓移植など、医療が今ほど進歩しておらず、親父に限らず大勢の方が、無念な最期を迎えたように思います。
入院中、付添いの母親は元看護婦で、すぐに親父の異変に気づき、看護婦や医師を呼んだのですが、それも時代とはいえ、入院中にもかかわらず、かなり長い時間放置されたそうで、「あれは医療ミスだ」と嘆いていました。
いまでの口癖は「お父さんは、たくさん年金を払ったのに、結局一円ももらえないで死んじゃった。だから、ワタシがその分、長生きしてもらってやる・・・」
これが長生きの秘訣(笑)なら親父も救われることでしょう。
親父は語学と数字に長けていたので、工作機械会社の貿易をしていました。
それでも40代までは鳴かず飛ばずで、柳沢の公団住宅住まい。新宿まで壊れた自転車を譲り受け、通勤していました。僕と姉のミルク代や食費にもこと欠く毎日。まあ昭和30年代ですから、どこもみな似たような感じでしょう。
愛知県あんまき市の会社に請われ、自動車部品の工作機械をアメリカ、台湾、韓国、ドイツに売りまくりました。1ドル360円の時代です。あんまき市の会社は業績を格段に伸ばし、まあ、生きていれば「社長」の椅子も見えていたそうです。
ただ、病気のデパートのような人で、入退院を繰り返し、家でもベッドで読書が定番でした。僕とは違い、勉強が趣味のような人物で、年にひとつ、必ず何かの資格に挑戦して、落ちたためしがありませんでした。
かと言って「カタブツ」くんではなく社交的。花見だ花火だ盆だ暮れだ・・・と年に何回もの宴会を企画して、そら、大勢の人たちを動員。まず会社からひとりで帰宅したことはなく、必ず誰かを連れて来ては夕食と晩酌。子供の僕はわけがわからず、夕食には、必ず日替わりで知らないオジサンが食卓を囲んでいました。
江戸っ子気質で人に驕るのが大好き。しかも短気で有名。会社では仕事に厳しく、社員が無駄話しとかしてると、ハサミとかコップが飛んできたそうです。
僕があんまき高校を卒業するころ、いまの「ビリケンカフェ」が入る3階建てのビルを建て、屋上には国旗掲揚塔まで立て、祝日には必ず国旗掲揚をしていました。
夏には、わざわざオリジナルの提灯を発注し、屋上に入れるだけの人を呼んで納涼祭です。出前やらビールやら酒やら、おそらく全て自腹でしょう・・・。
本業のほかに、名古屋とシカゴに日本料理店、ビルの2階に雀荘、新安城駅前に立ち呑み屋を経営して、株もやり、財テクもしていたみたいです。
しかし、 逆算すると、親父が、そのビルに住めたのはたったの8年くらいで、後半には、もう3階まで階段を上がるのもやっと・・・という状況でした。
先日、NHKで、俳優の高橋克典さんのお父さん(高校の音楽教師)の話をやっていました。自宅では、まったっく、父親を知ることがなかった高橋さんが、父親を知ったのは、葬儀の時に1000人を越える弔問客が訪れた時だったそうで、実は僕も、まったく同じ感想でした。
親父も、有名人ではないのに、新聞に死亡記事が出て、やはり1000人もの方々が焼香に訪れ、4列で焼香してくださいました。台湾や韓国からも何人も来てくださいました。まだ入社一年目の駆け出し記者なのに、中日新聞やヤクルト球団からも偉い方々が駆けつけてくださったのには恐縮しました。まっさきに星野仙一さんから献花が届けられたのも印象的でした。
あれは、7月のことでしたが、不思議と涙は出ず、喪主として長い葬儀を終え、すぐに職場に戻り、取材活動したのを覚えています。
「優秀な親と出来損ないのバカ息子」はだいたいが「ワンセット」なので、両方が立派だったらギャップが無さすぎて面白くないから、これでいいのです。
時代も違うので、親父と自分を比較しようという考えは一切ありません。ただ、現世の自分の眼は祖先より受け継いだ眼なので、少しでも長く生きて、祖先様が見れなかった未来を、この眼を通して見ていくことを、常に心がけています。
つづく。