少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1858 見沢知廉と早稲田中学

見沢知廉を知って、やはり東京の中学へ進学するべきだったかな・・・という念が今さらながらある。
安城北朝鮮中学も、それなりに、全国的には特異な中学であったと、振り返ればそう思うのだが、そこは田舎の中のど田舎の話、反骨精神どころか、暴力で抑えられる奴隷精神が叩き込まれた。しかし、その卑屈な時代が、後の反骨のバネとなったと見地すれば、それはそれで意味があったのだと納得する。
明治維新も中央からではなく、地方から起こした革命。しかし、現在の地方は大企業に護られた安泰した地域もある。特に愛知県は、なんとも住み易い日本一平和ボケした安住の地。安藤総理までボケるわけにはいかないので在住は不可能。あの安城北朝鮮中学でさえ、今や茶髪ピアス中坊まで在学するという世紀末ぶり。教育現場の破壊崩壊に歯止めが効かない。


以下ウズベキスタンによる、見沢知廉の人物紹介。もし、安藤総理が早稲田中学に進学していたら、また違う日本があったかも知れない。


見沢 知廉(みさわ ちれん、男性、1959年8月23日 - 2005年9月7日)は日本の新右翼活動家、作家。元一水会相談役。元統一戦線義勇軍総裁。本名は高橋 哲夫(のち服役中、家裁で公式に哲央と改名)。 旧姓、平井。東京都文京区生まれ。


1959年、東京都文京区千駄木に2人兄弟の長男として生まれる。父は芸能プロダクション経営者。母はもともと宝塚志望だったが厳格な父親に禁じられて断念。このため、母は息子に自らの夢を託し、幼い哲夫を劇団ひまわり劇団若草などの児童劇団に通わせた。小学生の時は表向きおとなしい優等生で、日本進学教室や四谷大塚に通って受験勉強に励んでいたが、その反面、ヒトラーの『わが闘争』やドストエフスキーの『罪と罰』を耽読し、自分は天才である、故に何をしても許されると考える側面もあった。さらに大蛇やワニを飼い、生きたネズミを食わせ、その有様を眺めて楽しんだ他、ウサギやイヌやネコを殺す動物虐待者の顔を持ち、「猫殺し哲」と呼ばれ、また妄想・虚言癖ゆえに「嘘つき哲」とも呼ばれた。


母方の祖父に倣って将来は早稲田大学に入れたいとの母の希望により、早稲田中学に入学。中学時代、父の経営する会社が倒産して一家離散し、両親が離婚して母に引き取られ、平井姓から高橋姓となる。中学3年の時右翼組織の活動を手伝うようになるが、失望。反体制の思想が芽生え始める。

中学3年時からヤクザを親にもつ級友の影響でグレはじめる。その後付属の早稲田高校に進学後はヤンキーとなり、カツアゲ、万引き、シンナー吸引など非行行為に走る。非行に走った理由は、両親の不和問題や高校の管理教育に対する反抗とされる。暴走族でも活動し、ブラックエンペラー白山支部千駄木極悪、ZERO根津の集会に参加していた。高校2年時、学校にはいかず本ばかりを読む中で、ドストエフスキーと出会い将来、小説を書こうと決意する。


高校2年時の学期末試験中にテスト用紙を破り、教壇で試験批判のアジテートをして試験をボイコットする。直後、屋上で『昭和維新の歌』を歌っていたところ、同級生の新左翼活動家に「決起したな。これでお前も左翼だ。こわっぱ教師なんか相手にするんじゃなく、国家権力と闘おう。」とオルグされ、共産主義者同盟戦旗派に加盟する。1978年の三里塚闘争での成田空港占拠闘争に参加した。しかし1979年には戦旗派を離れる。理由は、「左翼では民衆の心はつかめない。だから右翼に行く」というもの。これは三島由紀夫の自決について、戦旗派の上級メンバーが「茶番」と決めつけたことに対して「人が命がけでやったことを茶番とは何だ。こいつらは人の心が分からない」と左翼に絶望したためだった。


高校は退学処分となり、定時制高校の4年に編入中央大学法学部2部除籍中退。

1980年、三島事件(1970年)に感銘を受けた事を機に、右翼学生団体・日本学生同盟に加入。左翼から右翼に再び転向したが、連合赤軍には共鳴していたという。

1982年、新右翼一水会-統一戦線義勇軍書記長に就任。組織名「清水浩司」として、日本IBM、英国大使館等への火炎ゲリラ活動を行う。同年秋、スパイ粛清事件(「スパイ」とは「組織に潜入している公安当局のスパイ」を指す)を起こし、逮捕。殺人罪ならびに火炎びんの使用等の処罰に関する法律違反で懲役12年の判決を受け、川越少年刑務所-千葉刑務所-八王子医療刑務所-千葉刑務所で1994年12月まで服役。刑務所生活では、千葉刑務所の懲罰房がもっとも長く、3000日(8年近く)の間服役していた。この懲罰房で執筆活動を行う。千葉刑務所で、狭山事件無期懲役となった受刑者や新宿西口バス放火事件無期懲役となった受刑者やあさま山荘事件無期懲役となった吉野雅邦などの囚人に出会っている。


釈放後の1995年に、獄中で執筆した『天皇ごっこ』を発表。第25回新日本文学賞の佳作に選ばれる。1996年、獄中手記『囚人狂時代』を発表し、8万5千部を売り上げる。当時は月収100万円に達したこともあるが、税金の支払が翌年に発生するということも知らず、全額使いきってしまっていたという[7]。1997年、『母と子の囚人狂時代』、『獄の息子は発狂寸前』などを発表。同時期に『調律の帝国』で三島由紀夫賞候補に選ばれたが落選。このとき見沢自身は受賞を確信し、受賞パーティの会場のホテルまで予約していた[7]。以降は講演会等を中心に活動していた。


講演活動以外にも、その後慶應義塾大学文学部通信教育課程に入学し、学生として勉学し直していたが心身の不調に悩み、1998年には立教大学で講演中に脳梗塞で倒れ、救急車で搬送された。抗鬱剤を濫用し、乱脈な生活を送ったために原稿の締切を守れなくなり、招かれたイベントには無断欠席を繰り返し、仕事が減少。諸方に不義理を重ねたことへの自責の念から2004年には事務所で自殺を図って小指を2本切断し、血まみれの姿を母に発見されたこともある。この時はチーズナイフで少しずつ切断して行ったため出血が多く、「発見があと5分遅かったら危なかった」と医師に言われている。

2005年9月7日、横浜市戸塚区の自宅マンション、ドリームハイツ8階から飛び降り、転落死。享年46。自殺の動機については、経済的に困窮していた事などが言われている。公式ホームページでは自身がカンパを求めていた。

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安藤総理の未発表小説の中に「ドストエフ岩崎」という思想家が登場しますが、これは見沢知廉をモデルにしたわけではありません。