少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2667 松崎尚夫先生逝く

8/5-17

ipadのタッチパネルを押す指が進まないのはビジネス疲労のせいではない。心が重い。尚夫先生が死んじまった。

「誕生日、越すことができるのかなぁ」
尚夫先生は、虚ろに、聞き取れない声で唇を動かした。
昭和10年6月30日、尚夫は北朝鮮で生まれた。
「誕生日?」

「誕生日って、私はてっきり来年の誕生日のことだと思っていたのよ」電話口の寛子夫人の声は涙だった。
尚夫の越せない誕生日が、まさか今年の6月30日だったとは。

肺を患い緊急入院されたのが6月の初旬。でも、亡くなるとかいうレベルではなかった。

電話口の寛子さんが悔やむ。本当に悔やむ。
医師からは6月12日に退院の許可がおりていた。

しかし当日、尚夫先生の容態は悪化、歩ける状態ではなかった。
そして、医師はこう言った。
「もうやることがないんで」
これ以上治療しても無駄だから帰ってくれ、との旨。

安藤自身も先に入院した中野警察病院で同じことを言われた。
先生や奥さんの気持ちが痛いほどわかる。

いや、本当に痛くて歩けない患者に対して30日を越えたという理由でカエレと。
奥さんの懇願で退院を翌日13日に変更してもらった。安城市で一番大きな市民病院だ。

電話口の奥さんは「悔しい」と私に泣いた。
12日は元気ではないが、翌日に呼吸が止まる様子は微塵もなかった。

ところが先生は深夜に苦しんだそうだ。
「でも、私にはぜんぜん連絡がなかったんです」
翌日午前、看護師から電話がはいる。

「容態が悪いので奥様、来てください」 ただ、緊急ではなかったそうだ。
そして昼食中の奥さんに緊急の電話が入る。

「私が駆けつけた時には、もう虫の息だったんです。意識もなくて。

なんで、夜、付き添ってあげなかったんだろう・・・ってね」

病院という特殊な空間は人間の死という行為がまるで流れ作業のコンベアーのような状態にあり、医師も看護師も、身内以外の第3の死に対して感情を入れる隙間がないことは、私は理解できるが、普通の人には普通に理解できない。ましてや先生は80過ぎ、深夜に苦しんだとて、看護師が家族を呼ぶか呼ばないかは微妙、現場に居ない人間が裁定を下せない。

人間の死に鈍感になる。職業病だと、私は思う。

義務教育12年間で多くの教師と出逢った。馬鹿はいたけど悪党はいなかった。

尚夫先生は、あんまき高校でお世話になった。英語教師であり、担任。

西尾高校、岡崎高校と、愛知県内でも有数の進学校を歴任してのあんまき高校、さぞや教え甲斐があったことと思う。増してや、よくぞこれだけ劣等生を寄せ集めたという3年8組赤点クラス。
忘れもしない高3一学期の終業式。真っ青な顏した尚夫先生、気絶寸前、立つのがやっと。
「先生、どうした?顔色悪い、大丈夫か?」誰かが声をかけた。
「大丈夫じゃない、俺も長いこと教師やってきたけど、こんなクラスははじめてだ」
「先生、どうした?」誰かが声をかける。
「このクラスだけで、赤点が64個もある」と先生。

私は怒りに震え立ち上がった!
「誰だ、そんなバカ野郎は!」
「お前だよ、安藤」
「え、俺?すか?」
「安藤だけで8個。あと服部、岡田、吉田、太田、植村、稲川、野畑、近藤、高木・・・お前ら全員、夏休みないからな」

俺たちは日本の義務教育の反逆者を気取っていた。

尚夫先生の寛容は、我々の卒業アルバムに集約されている。
日本の義務教育において、あり得ない前衛的な作品に仕上がった。

しかし、これを石頭の文部省が認めることはない。サザンオールスターズNHKで放送禁止になったようなもんだが、放送禁止用語、R18指定、差別用語表現の自由を青天井で表現したため、発禁処分。

「お前らなあ、こんなもんが通るわけないだろう」
松崎検閲官に5度の提出5度の修正。最後は意地と意地のぶつかり合い。

我々の卒アの空白は、全て放送禁止用語を修正液で消された部分。

原本を月刊宝島に持ち込めば、今でも話題になるだろう。

尚夫先生の生い立ちを少し書く。
発電技師の父の仕事で北朝鮮で生まれる。
昭和20年、太平洋戦争勃発で、裕福な生活は逆転。賊軍とされ朝鮮人により、家財は略奪、男は撲殺、父親は軍隊に採られ、母親と姉、2人の妹と逃亡生活を強いられる。尚夫10歳、小学四年生。

米クズやパンクズを拾う生活。空腹のあまり腐ったサンマをナマで食い三日三晩のたうち回った経験もある。
逃亡中の倉庫で母親が過労と栄養失調で死す。享年38歳。
「目の前で母親の死を見てもなんの感情もなかった。母親の亡骸を戸板の上のポンと乗せ、その上にむしろを掛けて、大人が4人でトラックに乗せ、そのトラックには他の人の死体も乗っていてスーといっちゃてねぇ、哀しいとか寂しいとか、これからどうしようとか、そんな感覚すらなかったんだよ」

「生きる」という生物の本能だけが存在し、それ以外の感情という贅沢な余裕はなかったのだ。

幼い4人の兄弟姉妹は知らない大人たちに混ざり寝る。尚夫に添い寝してくれた見知らぬご夫人は、朝が来ると、すでに冷たくなっていた。知らない死体と一夜を共にしたこともある。

とにかく、朝鮮兵とロシア兵から逃げなくては。
唯一の大人である母親を失った幼い子たちは、裸足で山を越えた。

一番下の妹は4歳の誕生日を迎えたばかり。裸足で道無き道を行く姿、想像できますか?
38度線を目指し東へ東へ。

この物語、果てしなく長くなるので、続きが読みたい方は、無償でパンフを送付いたします。

今年の6月30日、先生に誕生祝いの電話を入れようと、ふと時計を見た時には8時を回っていたので遠慮した。その数日後、AKB48オタクの糸屋さんの招きで仙台に行ったときも、ふと先生のことが気になり電話しようとしたけど、やはり夕食の時間と重なり遠慮した。

数日後、この「あたしのショー夫」のパンフ作成に尽力してくれたクマちゃんから、よく考えたらとても貴重な経験なので、尚夫先生の話が聞きたいとのリクエストがあり、近いうちに先生にアポを取ろうと思っていた。直接の教え子でない人からも、話が聞きたいとは、先生もさぞ喜ばれることだろう。

もう、できないが。

最後に高3、12月、職員室の思い出を書く。
「お前、どうすんの?」
「あ、僕は一応、早稲田を受験しようと思います。トーダイはムリなんで」
「あのさ、早稲田を受験するのはチミの自由だけど、そも前に卒業どうすんの?」
「は?」
「いや、このまんまじゃ卒業できないよってね。もしもチミが早稲田に合格したら俺は裸で逆立ちして町中を歩いてやる」

あの時の尚夫の目は本気だった。
しかし、私にも勝算があった。なんせ、早稲田の商学部マークシート方式だ。

鉛筆の転がり具合で合格もある。

しかし、ここが私の優しさでもある。
恩師に恥をかかせるわけにはいかない。わざと全部、落ちてやったということにしておこうじゃないか、先生。

先生は裸逆立ちの約束をもう実現できない。

これで私も心置き無くまた、早稲田を狙えるというもの。死なない限りチャンスはある。

実は授業料を貯めていたけど、事業につぎ込み文無しになってしまった。

も一度、最初から立て直す。

FBFの皆様、長文にお付き合いいただき、ありがとうございました。

PS あんまき高校諸君、弔問日程はメッセにて。