少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

2685 最期の瞼(松崎尚夫先生 追悼記4)

8/13-17

あと一分、あと一秒でも長く一緒にいたかった。
もう少しだけこの世で手をたずさえて生きていたかった。
それが今の私の正直な気持ちです。

お別れの会で、近親者に配られたお礼の書を寛子夫人から、いただきました。

松崎尚夫先生 追悼記4。

6月13日。その日が松崎先生の退院予定日でした。
軽い昼食を済ませた早い午後、寛子夫人は予定通り、二時に先生を迎えに行くために車を走らせました。しかし、病院からは「急いでください」とだだならぬ緊急の電話が・・・。

「まさかそんな」
常識ではあり得ない。一日前の今ごろは、夫妻は普通に話をしていた。帰宅してからの生活の準備。介護用品も全て準備して、あとは先生の帰宅を待つだけだった。

「でもね、主人は私を待っていてくれたんです。『もう意識ないです』って先生(医者)に言われたんですけどね。私、大きな声で主人の名前を呼んだんです。そしたらね、目を開けてくれたんですよ。もう、瞳孔はね、よくわからないんですけど、そう、焦点は合っていなかったと思うんですけど、一生懸命ね、私のことを探すように・・・」
でも、松崎先生はまた瞼を閉じた。
「お父さん、いかん。もっと生きるって言ったじゃない・・・私、そう言ったんです。そしたらね、また、目を開けてくれたんです」と寛子夫人。

先生を訪ねた七人の野郎ども、知立高校の教え子たちも鼻をすすった。

「私ね、見たんです、最後にね。医者がね、もう意識ないっていう人が、なんで瞼開けれるのかなぁって。しかも二回、瞼を開いてくれたんです。だからね、私はね、戻って来てくれるもんだと思って、一生懸命、名前呼んだんです。そしたらね、本当にまた、瞼を開けてくれたんです。でもね、その時はね、前の二回と違ってね、ああ、これで終わりなんだなぁて気がしたんです。そしてね、最終的に瞼を閉じるんですけどね、今までとまるで違うんです。ゆぅくり、ゆぅくり、この世を惜しむかのように、ゆぅくりと、まるでね、舞台の緞帳が降りるように、ゆぅくりと。あんな瞼の閉じ方、人間できませんよ。本当にゆぅくりと、ゆぅくりと・・・」

私は真似をしてみた。本当に出来ない。日常生活で、意識して瞼を閉じる行為はない。先生は瞼を閉じたくなかったのだろう。
一分でも一秒でも長く、先生もまた寛子夫人と手をたずさえて生きていたかったに違いない。

熟年離婚、不倫、家庭内ホームレス・・・
家庭という惑星が不協和音に軋(きし)むのはワイドショーの芸能人ばかりではない。彼らは単なる一般世間の代表者。

今際の際で、「あと一分一秒でも一緒にいたい」という夫婦は、私の中で、それはドラマの中だけのおとぎ話の世界だと決めつけていた、恥ずかしい。

心をみがいておけ

松崎先生の遺言。
心をみがき続けた人の答えがそこにあった。

この季節にみかん。
帰り際に寛子夫人から、それぞれに二個ずつ配られた。
特に誰も言われを聞かなかった。

松崎先生の実家は渥美半島田原町、みかんの産地。
松崎先生からの真夏の甘味の贈り物。
戦時中、パン屑を拾い集めて空腹を凌いだ先生の命のみかん。吉田ゴリラーマンよ、心して食したまえ。