少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

288  臓器移植考・4

本日10日、千葉の20歳代の脳死患者から臓器の提供があったと報道されている。改正臓器移植法後、初の臓器提供であり、脳死患者からの臓器移植は国内で87例目ということだ。
今回のポイントは従来のように生前に本人が書面にて臓器提供の意思表示をしなくとも、口頭で家族に意思表示をした経緯があり、家族がそれを承認すれば、本人の意思が尊重され臓器提供されるという点です。確かに一歩前進したとは言えるのですが、僕から言わせれば、まだまだ「焼け石に水」という感は否めません。
日本では脳死を含め死体からの臓器移植は年間150例に及びません。僕が患者さんをお願いする中国の医師はひとりで年間200例以上の腎移植を手掛けています。もちろん中国の人口の多さの為せる業とも言えますが、日本とはケタが違います。
日本は欧米諸国やアジア他国と比較してドナー登録が圧倒的に低い国です。理由はいくつかありますが、まず移植や医学に対する知識が圧倒的に少ないということが、挙げられます。
かくいう僕自身も、現在の仕事(海外移植コーディネータ)を始めるまで「脳死」と「植物状態」がイコールだと思っていたからです。今でも実話映画、デ・二―ロの「レナードの朝」などを見るにつけ、「脳死」と「植物状態」の線引きに戸惑います。
ニュースや学校教育の中でもっとこの問題を掘り下げ「脳死」とは何か、「植物状態」とはどういうことかを、徹底的に国民に周知させればドナー登録は、飛躍的にとはいかないまでも、今より増えることは確実でしょう。
次に日本人の持つ独特の宗教観(無宗教観)が臓器提供の妨げとなる大きな壁となっています。正月に神社に初詣して神様に手を合わせ、教会のチャペルで挙式をあげ、死んだら寺で葬式。お盆になると迎え火で祖先の霊を迎え、クリスマスイブにはケーキを囲んでキリストに祈る。そんな支離滅裂なバイキング、フリードリンク形式の宗教観念は他国人からは意味不明に映ることでしょう。ただ、それは大きな問題ではありません。ここは日本ですから、日本人が好きなようにやればいいのです。他国との大きな違いは、日本人にとって、死後、残された遺族が一番大切にするのは遺体ではないでしょうか。僕も日本人ですから、その気持ちは普通にわかります。そしてそれが悪いことだとも思いません。棺桶には、黄泉への旅路に履くワラジを入れたり、天国でちゃんとご飯が食べれるように箸を入れたりします。同様に五体満足で火葬することが最善で、移植で臓器提供してしまったら、腎臓がない心臓がない・・・では今度生まれてくる時に困るだろう・・・という心配する遺族の思いも理解できます。
一方でクリスチャンの多い欧米人のように「死後の肉体に大きな意味はない。魂は生きて神の元へ戻るだけ。もし、自分の臓器が困っている誰かの役に立つならば、自分の肉体の一部が誰かの身体の中で共存できる。それは素晴らしいことだ」という考えにも共鳴できます。どちらかと言えば、僕はこの考え方に近く、だから死ねば即座に全臓器を提供するつもりでいます。
(ちなみに19歳の時アメリカで普通車の運転免許を取り、更新の時は20歳を過ぎていたのでアメリカではずっとドナー登録をしています=アメリカでは免許取得の時に登録するか拒否するか聞かれますので。日本では30歳を過ぎてからコンビニでドナーカードをもらい、記入して持っていました。先日の安城七夕祭りで愛知県のアイバンクと腎バンクには書面で登録を済ませました)
臓器提供の登録をする方々にはそれぞれの思いがあるかと思います。僕の場合、この世に生まれて半世紀も経つのに、まだまだ社会に何も貢献していないどころか、悪いことばかりたくらんでいるので、せめてもの罪ほろぼしです。この命でも、誰かの役に立つならば、それはある意味喜ぶべきことなのです。ケチな人間ですから無駄死にだけは免れたいという貧乏根性からかも知れません。
最近では次に使う人のためにと、暴飲暴食をつつしんでいます(すでに手遅れかもしれませんが、気はこころですから)。
渡航臓器移植を頭ごなしに否定する厚生官僚や国会議員のうち何%が臓器提供に書面登録しているのか、是非は別として、非常に興味があります。何でもかんでも否定するのは簡単、否定だけなら僕にも出来ます。渡航移植禁止の代案がこの程度なら、患者のほとんどは「死」を宣告されたのと同義語であることを読者の皆さまに認識していただきたい。
(臓器移植考・1=NO 200 4/15/2010 移植考・2=NO 201 4/17/2010 移植考・3=NO 202 4/17/2010 参照)