少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

314  親戚考

「鳥が鳴いて、川が流れて、野山はいま、花が咲き乱れ
 汽車は行くよ、けむり吐いて、トンネル抜ければ竹中だ〜」
南こうせつさんの故郷、大分県竹中の風景を書いた詩「ひとりきり」の出だしです。その二番。
「太鼓が響き、神輿が繰り出し、いよいよ待ちに待ったお祭りだ、
 親戚が集まり、酒を飲んで、今年は、豊年だ〜」
田舎のお祭りや親戚の風景を描写したとても綺麗な詩です。
子供のころ、東京から越してきた僕にとって、安城のお祭り風景は不思議な感覚で、まさに、こうせつさんの「ひとりきり」の世界でした。
僕の住んでいた地域には白山神社と乗らずの杜神社の2つの神社があり、年に2回のお祭りがありました。
たいがい土日に開催されるのですが、ある頃から、ひとつの不可解なルールに気が付きました。お祭りのある土曜日に決まって欠席する子が何人かいるのです。そしてその子たちは全員が女子。
僕らクソガキどもは、親からもらった50円のお小遣いをぎゅっと握りしめたり、ポケットにねじ込んだりして、帰宅しランドセルを放り投げるや、一目散に神社に自転車を飛ばすのです。
クジやら型抜きやら綿あめやら、それぞれ1回5円の時代とはいえ50円の小遣いなど、あっという間に消えてしまいますが、時々、200円とか300円とかの大金を持っているクソガキに出くわします。聞けば親戚のおじさんやら、お婆さんにもらったとか・・・。だからといって、そいつらにタカるわけでもなく、さして広くない境内をぶらぶらするのですが、ふと御社を見上げると子供の神子(みこさん=当時はその言葉すら知りませんでしたけど)が居るのに気が付きました。顔を真っ白に塗りたくられ、真っ赤かな口紅とおでこに描かれた眉毛は、それが誰だかよくわかりませんでしたが、どうやら、その中身こそが、お祭りの土曜日にいつも消える同級生の女の子だったようです。つのだじろうの恐怖漫画に出てくるような感じで、僕は怖くてたまりませんでした。
そういう少女たちは、土着している旧家の子もしくは縁者で、選ばれし子なんだそうです。
僕たち団地組は地元民ではなく、それぞれ親の都合で市外からやってきたクソガキどもなので、同級生の地元農家の家を垣根の外から覗いてみると、何やら大勢の大人やら子供やら老人やらが集まり、ワイワイガヤガヤやっている光景を、不思議な感覚で垣間見ていました。
これが、こうせつさんの描いた、竹中のお祭りの風景とダブるのです。
本日の日記は前日の続きですが、占い師に言われたように、僕は「家族愛」に恵まれないそうですが、実際に「親戚」というものも極端に少ない家系だと思います。
今では、母親の実弟が長年のアメリカ勤務から帰国して鳴海に居りますが、それまで愛知県内に一軒の親戚もありませんでした。父親は大正生まれにしては珍しく、兄弟姉妹がいなかったので、親しい親戚はすべて母親の兄弟だけですが、それも東京にひとり、札幌にひとりだけ。そしてショッカ―さんの素敵なおっかさんが所沢に・・・。これが僕の親戚のすべてです。
中国の田舎では従兄弟だろうがハト子だろうが、弟だ妹だ姉だ兄だというのでいったい何人兄弟なのか、相関図を書かなければわけがわかりません。
それにしても何故、少数家族のことを「核家族」と言うのでしょう?
核はものごとの基本とか中心とかという意味もあるので核が家族というのは解るのですが、それが「少数」を意味するのはどうしてでしょうかね?どなたか知っている方、いらっしゃいましたらお願いいたします。
深く考えたことはないのですが、核家族の増加はつまり核親戚の増加に繋がるのでしょうか?単純計算ではそうなるのですが、おそらくそんな計算は成り立たないでしょう。
僕のような弱体人間は何でもかんでも無いモノねだり。8部屋もある、ただ広くて綺麗なだけの部屋で、ポツンとひとり暮らせば、中国の大家族主義を見ていると、こうせつさんの「竹中」の世界に憧れたりもするんです。