少数派日記

社会派エロブログ、少数派日記です。

“安藤総理の少数派日記”

1768 11日の悲劇Ⅲ

各メディアによると、北朝鮮の核弾頭ミサイル発射のXdayは、今月11日木曜日が最有力だと伝えてられています。根拠は金正恩(ジョンウン)が正式に第一書記に就任し、前日の10日までに各国領事館員を国外に退去させる異例の措置をとったこと。加えて、「11」という数字と「仏滅」が重なったことも視野に入れなければなりません。
まあ、今回も北朝鮮の十八番であるブラフ(bluff=ハッタリ、脅し、こけ脅し。ちなみに野球用語のブラッシュボール=brushing ballは、かすめる・・・の意。胸元をかすめるシュート。頭部へのブラッシュは一球で危険球と見なされ即退場)だと、安藤総理も9割5分の可能性で、そう思うのだが、総理は朝鮮語をしゃべれないので、きゃつらが何と言っているのか、ようわからん。
こっちは中国、韓国との領土問題で目いっぱいなので、そちらまで手が回らんのが現状です。


で、織田信長を調べました。「11日」にまつわる忌まわしい何かがあるかと思いまして・・・。しかし、総理は親切なので、結論を先に申しますと、特に何も見つかりませんでした。ですから、興味のない方はスルーしてください。
しかし、決してNHK大河ドラマにはならない魔王・信長の2万人虐殺の史実をお読みください。


伊勢長島の一向一揆


 鎮護国家の大道場は、叫喚のるつぼと化した。織田勢は僧俗・児童・智者・上人の別を問わずことごとく首をはね、 信長公の御前に差し出した。また山上では名僧・貴僧の呼び声高い高僧たちとともに美女・小童のたぐいが数をも知れず捕らえられ、御前に引き出されてきた。かれらは口々に「悪僧を誅伐なさるにおいては是非もなし。しかしわれらは助け候え」と哀願したが、 信長公は聞き入れず、彼らはすべて首を打ち落とされた。まことに目も当てられぬありさまであった。
 焼き討ちは完遂され、信長公は胸中のしこりをとりはらった。信長公の怒りに触れた比叡山山麓には数千の屍が散らばり、 この世のものとも思えぬ情景が広がっていた。哀れなことであった。


 天正二年7月13日、信長父子は岐阜を出陣し、同日、尾張の津島に到着た。
同15日、九鬼水軍が海上封鎖。織田軍は四方から攻撃を開始した。一揆勢は、篠橋・大鳥居・屋長島・中江・長島に分散し、立て籠もったが、それぞれの砦は完全に包囲され孤立した。

 8月2日に大鳥居、続いて篠橋が陥落。9月29日、餓死者が続出する中、長島の一揆勢が降伏を申し出ます。これを信長は許したと見せかけ、一揆勢が多数の船に乗り退去するところを隠れていた鉄砲隊が狙撃し、さらに切り殺すなどします。この攻撃に対し7〜800人の一揆勢が、刀ひとつで裸になって川に飛び込み、死に物狂いで猛反撃してきます。このため信長の兄・信広、弟・秀成や叔父の織田(津田)信次を含む多くの一族や家臣が討ち死にします。

この乱戦で脱出に成功した門徒は大坂の石山本願寺を目指して逃走します。
9月に入り、一揆勢は三ヶ月に及ぶ籠城で兵糧が尽き、長島城は開城、降伏した。しかし、多くの小船に乗って島をあとにした途端に織田軍の一斉射撃を浴びた。そして、斬り捨てられた。それでも八百人ほどが油断していた信長の本陣に切り込みをかけ散々に斬り立てた揚句、石山本願寺まで辿りついたという。残る屋長島・中江両砦に残された老若男女2万人には過酷な運命が待っていました。信長の命により、四方から火を放たれ男女二万人が焼き殺されたのである。
ーーーーーーーーーー以上ネット記事よりーーーーーーー


ただし、信長父子が津島に到着した日から二万人を虐殺するまでの8月2日から9月29日までに「8月11日」と「9月11日」が含まれていることを見逃してはいけません。